車輪の再発明 - 感嘆詞の哲学

自分が関心ないことは無価値と判断しがちだし自分が関心あることは価値があると判断しがちである。なので全く自分が関心ない物事に「うお!これ凄え!」と価値を認める人は結構大人物かもしれない(単にいい加減で調子が良いだけかもしれない。だが想外の大人物である可能性は心に留めておきたい)

「自分が関心あることは価値があると判断しがちである」というのは、関心 interest の語が同時に「利子・利潤・利益」を意味することを思い起こせば、18世紀の啓蒙哲学者たちが言う「必然の領域」のことであり(関心をもつ、というのは欲望・好奇心の充足を利益・利得であるという風に捉える経済的な態度です)、他方で、「全く自分が関心ない物事に「うお!これ凄え!」と価値を認める」というのは、美の定義そのもの、「美の崇高な無関心」(シラー)に他ならない。

明治以来の翻訳で「美」と訳すことになっている beau や schoen は、おお、とか、ああ、とかいった感嘆詞のような言葉だから、現代口語としては、「美」より「うお!これ凄え!」と訳すのがなるほど適切ではあるかもしれない。

何が起きているかというと、「美」の技術(いわば「すげえテク」)を「芸術」として括り出す制度(たとえばルイ14世の宮廷文化は、19世紀市民が l'art と定冠詞付き単数で総称することになる「様々なすげえテクたち beaux arts」を勅許で官僚制に組み入れるシステムだった)を批判してはじまった大衆文化論の極北として、「作者」概念中心の著作権思想に異議を唱えてきた人が、一周回って、genius という観念をそれと気付かずに再発明しようとしているようだ。

「近代」の入り口に、別の側から掘り進んでたどりついてしまったらしい。

(増田聡の美学的教養はヒュームの趣味論に米国分析哲学を接ぎ木しているのだから、ひとしきり暴れた末にここにたどりつくのは不思議ではない。)

美学の感性論としての側面は知覚・認知といった領域に活路を見いだしつつあるようだが、他方で「芸術」の理論はどうなるのか?

18世紀啓蒙思想が理性批判の果てに見いだし、19世紀教養市民が大きく育てた「美」の観念は、ニューメディアが様々な事件の連鎖と衝撃を増幅・活性化し続けた20世紀を経て、「うお!凄え!」といった感嘆詞の哲学に再編されつつあるのかもしれない。