フェアネスの実践:「相互補完的なヒエラルキー」の成立条件

長木誠司『オペラの20世紀』のケージ「ユーロペラ」を論じた節、625-626頁には、増田聡『その音楽の〈作者〉とは誰か?』で展開された「近代美学」批判に対する批判的な読解が含まれている。(初出は、未確認ですが『レコード芸術』の連載だと思われます。)

「作者」として名前が出ることのない演奏者たちは必ずしも作者の「犠牲になっている」わけではない、という長木誠司の主張を受け入れるかどうか、鍵となるのは、ヒエラルキーの下位が上位の「犠牲になる」わけではない「相互補完的なヒエラルキー」という観察モデルを認めるか否かだろう。

フェアな作法でなされた問題提起だと思う。(この大著自体が、よくぞこの課題をこういう態度で書ききったものだと感嘆する。)

増田聡本人であれ第三者であれ、この件に関心をもち、何らかのリアクションを言葉にしたいと思う人は、私の知ったことではないので、私のこのエントリーとは関係なく、長木さんの著作を読んだうえで、長木さんの著作へのリアクションとして当事者間で進めて下さい。

オペラの20世紀: 夢のまた夢へ

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