ゴールを見失った演出、好発進だったのに

びわ湖ホールの「魔笛」は既に日生劇場でやったプロダクションだそうなので、今さら演出について何か言っても仕方がないかもしれませんが、前半はほぼ完璧と思えるくらい周到にひとつひとつのシーンを作り込んでいたのに、後半でそれらのアイデアがほとんど活かされることなく、ごく普通の結末に着地したので、がっかりした。(清掃人のアンチャンたちも3人のアマデウスも、後半は大して活躍しない。あれでは無駄遣いと言われてしまうと思う。)

昨年の関西二期会の「魔弾の射手」も似たような竜頭蛇尾の演出だったけれど、ドイツで勉強して帰ってきた意欲的なオペラ演出家がゴールを見失ってしまうのは、何か構造的な問題、症状なのでしょうか?

今の日本のオペラ制作では、演出家には目新しい「設定」を考えることだけが期待されていて、ドラマ本体はルーティーンに手を付けることが認められていない。最後は「音楽の力」なるものに主導権が移る。どうも、そういうことになっているように見えます。

ジングシュピール/オペラ・コミックは前半に台詞芝居が多くて、後半は台詞と歌がシンプルに交替するだけになる傾向がありますが、そうなったときに演出のほうも前半とは戦術を切り替える必要があるのではないか。そのときの「攻め手」を演出家が用意していないと、こういう風に惰性で進むことになってしまうのかもしれませんね。

あと、オペラ演出家が会議や稽古で長期間つきあうことになる「関係者(歌手もそこに含まれるかもしれない)」の大半は、ザラストロの教団のおっさんたちみたいな「可愛いオトナ」かもしれないけれど、本番でどの歌手よりも早くスタンバイして、最後まで板付きで持ち場に留まるオーケストラピットの人たちは、別のモラルと時間軸で舞台に関わっているような気がします。そういうのを含めての劇場なのではないだろうか。

作品の「世界観(物語の設定・舞台美術に落とし込まれるような)」を決めるのとは別に、ドラマの進行における言葉と声と音楽の関係(の変化・推移)を察知して、立ち位置を選択していくことも、演出の領分ではないかと思う。「世界観」を決めただけでオペラを「見切った」と思うのは、まだ早い。そのような態度でオペラにアプローチするのは、やはり、かなりマズいのではないでしょうか。

(少し前にはじまった新国立劇場のケントリッジの魔笛で「音楽」が映像とほとんど絡まないルーティーンになっていたのは、これとは事情が違って、ケントリッジのオペラ制作にいつもくっついて来ることになっているらしい「演出補佐」が、ケントリッジのアイデアをオペラとして実装するには力不足なんだろうと思う。)