「新日本音楽」の現在(4) マイノリティは一枚岩ではない

21世紀のグローバリゼーションは20世紀の大衆化を前提にしているので、相変わらず「多数決」数を頼みとする少数への抑圧が起こりうる構造なので、そこへのカウンターとして提唱されるのがマイノリティの保護ですね。

では、マジョリティは具体的にマイノリティとどのように交渉すればいいのか。

もし、マイノリティが多数派に簡単には制圧され少数精鋭の鋼鉄の組織と戦略を誇っているのであれば、そのようなマイノリティ組織の統治機構に従って、しかるべき窓口と交渉して、あとは当該組織の内部統制に委ねればいい。コンピュータ・プログラミングで言うオブジェクト指向、カプセル化されたオブジェクト間での内部構造に直接手を突っ込むことのない情報のやりとりのようなものですね。

でも、ユーゴスラビア情勢が冷戦の終結でむしろ混迷を深めたように、マイノリティは、むしろ、そのように内部が整然と組織化されていないことが少なくない。内部の矛盾を力で封じ込めた状態で誰かが外部との交渉に名乗りを上げる場合があるかもしれないし、(紛争地域によくあるように)競合する複数の組織や勢力の一方、あるいは、両方が平行して外部との交渉を試みるかもしれない。あるいは、内部の構造を斜めに横切って、何者かが、いわば「抜け駆け」して外部との交渉を試みる場合だってあるでしょう。

「新日本音楽」がその名に値するコンテンツを備えている場合には、旧来の日本音楽(とは何か、というのが大問題ではありますが)に対する葛藤や更新を企てているわけだから、そのような現象がある時点で、定義上、もはや一枚岩のカプセル化されたオブジェクトを想定することはできないと言うべきでしょう。

「新日本音楽」が、内部では葛藤・更新を仕掛けつつ、対外的には、「日本音楽」というマイノリティの代表窓口であるかのように振る舞う、という事態が生じた場合、私たちはどのように応対すればいいのか。

事情を精査したうえで事態に果敢に介入する、というのも、ひとつの勇気ある選択肢ではあるけれど、紛争に関して、特定の当事者に過剰にコミットすることなく中立の立場で事態を静観する選択肢もあるはずです。その場合、外見上、あたかもマイノリティとしての「日本音楽」への配慮を欠いたマジョリティの横暴と区別を付けるのが難しくなるわけですが、私たちは、時と場合によっては、そのような批判に屈しない覚悟をすべきかもしれない。

どの対応を選択するとしても、「無垢の第三者」ではありえない。

だからこそ、「新日本音楽」は「政治」の案件なのだと思います。

(ここまでの一連の考察は、実を言えば、文部省/文化庁の芸術祭と「新日本音楽」が奇妙に相性がよいように見える、という思いつきから出発しています。そして、大栗裕は、一見するとそのような「芸術祭」と相性がよさそうなのに、どうして何度エントリーしても受賞に至らなかったのか、芸術祭の歴史のなかでの大栗裕の位置ということを考えるための準備のつもりです。

ですが、幸か不幸か、現在、わたくし自身が芸術祭の審査委員なので、芸術祭の具体的な歴史と現在に関する事柄についての知見は審査委員としての業務に優先的に役立てるべきであり、他のプロジェクトへの流用を慎むべきだろうと思いますので、ひとまず、考察はここまでとします。)