「嗤う日本のナショナリズム」(2)

北田暁大「嗤う日本の「ナショナリズム」」ISBN:4140910240

なんとなく、証文の出し遅れ、という印象を受けてしまったのは、議論のスタンスとして、ised倫理研(2ちゃんねるは終わった、さあ次へ)の前提のような話なのに、「倫理研」ログより後のタイミングで出てしまった、ということがあるかもしれません。

そして、ちょっと気になるのは、この本を読むことで、新たに「反省」が活性化したりする危惧はないか、ということ。(この本を読んで、「反省」「アイロニー」にとらわれている自分を深く自覚して、「反省」……等々。)

でも、いまも「右翼vs左翼」の図式で議論を組み立てる向きもあるみたいですから、紙の書物をまとめる、啓蒙的な意味は、あるのかもしれませんね。

ただ、全体の構成としては、ほぼ10年単位で、それぞれの時点の言説の「状態」を分析・記述するという形のはずなのに、いきなり、「赤軍キャンプ」のかなりショッキングな「事件」を出したことは、ちょっと、気になっています。

「総括」が自己の身体の否定に至るというグロテスクな状況は、おそらく、内省の末に「生活世界」を回復しようとする、実存主義の戯画という面があったのかなと思います。

一方、70年代以後の「アイロニー」は、「広告都市・東京」が分析したような、消費社会の身体と表裏一体と考えることができそう。

そうすると、ネットワーク社会の「嗤うナショナリズム」は、「身体」をどう処理しているのだろうと、ふと思いました。

人は、「身体」を宙づりにして「嗤う」のでしょうか。なんとなく、そんな感じはします。で、「電車男」の場合は、「愛し合う身体」を得たところで、「嗤う」空間から退場する、という古典的なパターンになっている。

でも、ネットワーク・コミュニケーションを装填しつづける「身体」というのも、ありそうな気がするのです。「つながりの社会性」は、その萌芽的な事例のような感じもします。

それに、家庭内でメールする夫婦という話も、実際に聞きますから、決して、「若者の風俗」では片づかない感じ。

「嗤うナショナリズム」と「つながりの社会性」は、補完的(=2ちゃんねらーも社交的)なのか、それとも、両者は排他的(=2ちゃんねらーはひきこもり)なのか。どうなのでしょう。

(「赤軍派」のエピソード、ひきこもらない人には、そんな風に脅されても……の感じかも、と思ったりもします。)