2018-01-01から1ヶ月間の記事一覧

Write once, use anywhere - 全能のイーターフェースへの夢想とその終焉

Write once, use anywhere はサン・マイクロシステムズがプログラミング言語Javaを売り出すときに使ったキャッチフレーズだそうだが、一度書いた定数をあらゆるところで使い回せるように書式を効率化するプログラミングの作法あたりから着想されたのでしょう…

大学教員資格更新テスト(論述)

主要な研究不正には捏造・改竄・剽窃と三つの類型があるけど、なぜサイエンスでは捏造と改竄が問題となりがちで、人文系では剽窃が問題となりがちなのか。それはおおざっぱにゆうて前者は主に事実に焦点がある学問であり、後者は主に事実を解釈した表現に焦…

増田聡さんはネットで議論をしないんじゃなかったんですか?

(あと、週末は家族サービスに徹してtiwtterしない、と奥様あたりから厳命されていたのではないか、と書き込みのタイミングから推測していたのだが、違ったのか。)言いたい放題、エエ調子やね。*昔、樋口光治という人がいた。農家の跡取りが高槻高校(私学…

そしてようやく、「演歌的」情実人事の解明に向けて

制度に問題や破れが生じたときには、まず、制度的な手順に沿った修復を試みるのが順当だろう。任意団体が開催した行事におかしな点があるなら、その行事の主催者が責任を問われる。学会のシンポジウムが妙な展開になったとしたら、そのシンポジウムの企画運…

討論の作法

一連のエントリーで書いたことの概略は、既に先の学会の最中にシンポジウムを聴きながら考えたことである。(斎藤さんの著書を持って行っていたので、本の余白に書いたメモが残っている。)映画で知る美空ひばりとその時代 〜銀幕の女王が伝える昭和の音楽文…

懐柔の作法

オレはネットでは議論しない。ネットに書いたことに言いたいことがある人とは対面でお話しします。 こういうことを「ネットで」宣言するとか、実に見え透いて馬鹿らしいことである。そういえば、先日学会の休憩中に廊下ですれ違ったときには、妙に大げさに「…

中堅大学教員による情報統制の閉塞感

増田聡とその仲間達には、何かを面白く物語る能力が決定的に欠けている。問題、問題、と言い募るだけではうっとうしくつまらない、という局面が到来することに気付いていないようだ。*今の若い人たちは、大して面白くはない物語が飽和して出口がない状態で…

「大坂の陣」シンドローム

我が国に犯罪者が多すぎるかどうか、という議論は、犯罪の専門家であるところの犯罪者自身にしか許されていないのだろうか?高等教育の現場担当者であるところの増田聡氏の詭弁は、専門家という概念と当事者という概念を故意に混同して、話をミスリードして…

聴衆の消滅:第三者の審級について

シンポジウムの企画・進行係とパネリストの関係が曖昧だったり、記録・報告を登壇者自身がやったり、というのは、とてもわかりやすい「第三者の審級」の消滅、渡辺裕の著作をもじれば、「聴衆の消滅」だと思う。*今では多くの任意団体でその風習が失われつ…

自称フィクサー

ネットをカチャカチャ検索して思いつきを喋る増田聡は、上杉隆に似てきた。数学者や自然科学者がその場で思いついた数式を取って出しで学会発表して検算を他人に任せる、とかありえへんやろ。そんなん、プロの研究者のやることやないで。何様のつもりやねん…

大衆とテクノロジー

テレビを話の枕にするポピュラー文化研究のお作法のまねをすることになりますが、2017年のドクターXは、シリーズとしての完成度を高める職人技に感心する一方で、最近話題のAIがスターウォーズ風の「ロボット」として登場したのは、既に老人向けメディアにな…

テレビ試聴を大衆音楽研究の観測定点とみなしていいのか?

今日の同志社女子大での演歌研究シンポジウムは、登壇者4人のうちの3人がまるでしめしあわせたかのようにテレビ番組への言及を話の枕に使ったのが気になった。そして休憩後の討論は、研究者コミュニティの議論というより、まるで、往年の朝ナマや少し前に…

文化史のなかのミュージカル

当初の計画ではオペラ史の応用・続きとして音楽劇としてのミュージカルを扱うつもりだったのけれど、実際に色々調べて、実作を観ていくと、むしろ、まずミュージカルのアメリカ文化史における位置と役割を見極めたほうがいいと思えてきた。サヴォイ・オペラ…

拝啓増田聡様

なにかをつまらないと思うことと、つまらないと言うことはちがう。公開の場でつまらないと言うのが許されるのは、なにか単なる感想を超えた目的があるときだ。そうでなければ、それは単に「おれの感想きいてくれ」という押しつけになってしまう。 東浩紀のtw…

生誕100年

大栗裕は1918年生まれなので今年は生誕100年。生前に大栗裕が務めた京都女子大音楽教育の先生方と学生さんの演奏会で、仏教讃歌と大阪俗謡による幻想曲が演奏されました。仏教讃歌はアカペラ。言葉と節回しがはっきりわかる新鮮で効果的なやり方だったのでは…

友人という名の「演歌的」関係性について

学会の公式行事の企画者が登壇を予定する者から「○○君」と呼ばれ、この行事とは別の文脈においてではあるが、当該人物が「サブちゃんとワジマ先生」というようにキャラクター化してイジられるのは、おそらく、そのようにお互いを呼び合う旧友関係を前提にし…

Wissenschaftlich gefasste Erinnerung

ダールハウス(たぶん「音楽史の基礎」だろうけれど)の出典を確かめられてはいないけれど、タラスキンは京都賞の受賞講演でこの言葉を使っている。YouTubeでみることのできる同時通訳はちょっとアタフタしているけれど、「歴史とは知的につかみ取られた記憶…

脳力の限界:誰が日本のリチャード・タラスキンたりうるか?

昨年の日経批評欄の年末回顧では、バーンスタイン「ミサ」とメシアン「アッシジ」が相前後して上演されたのが関西の2017年の最大のトピックだった、という括りにさせていただきましたが、関西ではなく「日本の2017年」というスコープで考えるとしたら、京都…

ニューイヤーコンサートに見るテレビと舞踊(バレエ)の相性の良さ

ミュージカル映画というアメリカの象徴のような輝かしいジャンルがあるけれど、20世紀の映像・動画メディアの中で、舞踊と一番相性が良かったのは、ながらで眺めることができる=見物観光という態度を許すテレビだったかもしれない。MTVのマイケル・ジャクソ…