2017-07-01から1ヶ月間の記事一覧

うた・楽譜・物語/ドラマの役割:クラシック音楽もまたその大半はダンス・ミュージックであるわけだが

おそらくポピュラー音楽はその大半がダンス・ミュージックである、と言ってしまったほうが生産的なのだろうし、バレエ(音楽と舞踊)が現在のような姿になる経緯を追うと、クラシック音楽もまた、バロック時代のタクト・リズム/調的和声の標準化以来、ほぼ…

現代性と同時代性

喫茶店でメモしたこの手書きの図をパソコンで清書するのは面倒そうだけれど、とりあえず、これがバレエの歴史の私なりのまとめでございます。ダンスを「見る/踊る/聴く」、という区別が明確になったヨーロッパ(学生さんから「見るダンスと踊るダンスの区…

クラシック・バレエと20世紀の身体、クラシック音楽と20世紀の聴覚文化

音楽と舞踊、結局、半期の授業では20世紀に入って「クラシック・バレエ」が確立したところまでしか扱えなかったが、「バレエ」と呼ばれるヨーロッパの劇場舞踊は、歴史的にはバロックまで起源を遡ることができるとしても、歴史的な連続性を言うことはほぼ無…

ヤンキー都市大阪vsネオリベ都市東京:大阪の「紙の文化」はどうなっているのか?

先日、バーンスタインのミサのロビーで、知り合いに「どうして大阪は不良っぽい企画が好きなんですか」と訊かれた。なるほど、現在の大阪の民間ホールのオーナーや看板企画(とその旗振り役の人たち)の顔ぶれを見ると、大阪維新の政治家と似たような「ヤン…

科学と職人

21世紀に“洋ゲー”でゲームAIが遂げた驚異の進化史。その「敗戦」から日本のゲーム業界が再び立ち上がるには?【AI開発者・三宅陽一郎氏インタビュー】なるほど今のゲーム開発がそういう風になっているのであれば、「ものづくりニッポン」の代表として(博士…

日本の大学と学会

日本の学会の多くは大学の当該学科設置後に大学教員が集まって作ったもので、現状では大学が学会に教員の評価をアウトソースするような関係にはないと思う。学会がそのような格付け機関を目指している気配はあるし、今後はより積極的に、明確な制度としてそ…

出力を発信元に還流させない

最近のイベント広報では、エコーチェンバーなSNSを利用して「お客様の声」をリツイートやいいねでフォローするのが流行っているが、私はあれがどうにも好きになれない。オーディオ・音響設計で言えば、スピーカーからの出力や会場内の反響をふたたびマイクで…

いま何が巨大化しているのか?

少し前にこういうことを考えて、いまいちだと思って引っ込めたが、 テレビを灯けると強くて巨大な生き物が映し出されて、それに立ち向かうのがヒーローだという世界観で制作された物語が展開されていたが、あれをみた人は、最も大きく最も強い存在に立ち向う…

分断・友敵関係の正体

研究については「博士号以前」の透明人間であることになっているらしいので、私は音楽の話をする。 研究会→音楽会にケチをつける人間と、翻訳→海外音楽家の招聘にケチをつける人間は、等しく下らない。少なくとも(音楽会運営も呼び屋も)自分でやった経験が…

Externality

どう考えても、文科省職員は天下りで大学に来るのではなく、再教育の単位履修のために授業料を払って大学に来るべき。 これからは、そういう風に社会人が大学に学びに来るのを「天下り」と呼ぶことにしてはどうか。経済学に外部性という言葉があるが、大学と…

踊るダンスと見るダンス:宮廷外交、ナショナリズム/異国趣味、モダニズム

19世紀のナショナリズムと20世紀の民族主義の違いが昔からずっとピンと来なかったのだけれど、ダンスのことを整理してようやく腑に落ちた。踊るダンスと見るダンスの区別が鍵になっていて、19世紀のナショナルな舞踊=民俗舞踊(ドイツのワルツ、ボヘミアの…

中高年大学教員が「負けるが勝ち」話法に傾く理由

「私以外のすべての人は賢い」という命題は嘘つきのパラドクスと違って自己言及を含まないけれど、この命題が真であることを証明するのは、「私は世界で一番賢い」を証明というか実現するより難しい。他人を誉めておけば指弾されることはないだろう、という…

近所の大学とグローバルな大学

「世界で闘える博士を育てないでどうするか」と、東大生が耳元で叫ぶのを正直うっとうしいなあ、と思ってしまうのは、私が、路線バスで通える家から一番近い大学に行ったに過ぎないからかもしれない。(それじゃあ、いま自分が大学生だったら立命館茨木キャ…

夫婦別姓論と博士号至上主義

小谷野敦が、夫婦別姓論は、一見リベラルに個人の尊厳を主張しているようだが、実態は家名存続を願う保守主義だろうと繰り返し発言しているが、大学・高等教育のヒューマニティーズ、リベラル・アーツを博士号至上主義で再編せよ、という主張も、同様に、博…

ショパンとスクリャービン

小学生の頃、団地の別の棟に住んでいた先生にピアノを習いはじめたのは、妹が習いたいと言うので「だったらついでに」ということに過ぎず、はじめてみると凝り性なのでそれなりに進歩したが与えられた曲を次々こなすゲームや遊びのようなものに過ぎなかった…

構造と価値転倒:モダニズムという名のサイコロのからくり

バレエ・リュス(春の祭典)でストラヴィンスキーが学んだのは、常識・因習を反転させるとパリの観客が大喜びする、ということではないかと思う。発想・技法としては、コロンブスの卵である。それ自体としては、いかにもいつか誰かがやりそうなことだが、プ…

バレエにはワーグナーがいない

ワーグナーは台本執筆から作曲、指揮、演出、劇場設計まで全部ひとりでやってしまったが、バレエにはそんな風にすべてを掌握する「王」はいない。ディアギレフは、逆に自分では何もしないことによってバレエ・リュスにインプレサリオとして君臨できたのかも…

バレエという「20世紀の」舞踊

研究では、新しく得た知識を寝かせてから出力すべきなのかもしれないが、日々の授業では、取ってだしじゃないと追いつかないことがある。バレエ・リュスを「ブーメラン」(パリで撒かれた種がロシアで花開いて「バレエ・リュス」として西ヨーロッパに戻って…

「ごん狐」の脚色

大栗裕が関西学院大学マンドリンクラブのために音楽を付けた「ごん狐」の朗読台本は新美南吉の原作そのままではなく、放送作家の上原弘毅が脚色している。上原の台本では、合唱(大学の混声合唱エゴラド)が村人役を演じて、前半から兵十をからかう。いかに…

オペラの巡業、19世紀南米の音楽と劇場

以前、細川周平先生から、大阪弁で歌うモダニズムといえば笠置シヅ子だろう、というヒントをいただいたことは大変ありがたく、いつか学恩に報いなければと思っていますが、今度はブラジル音楽についてのお話をお伺いする機会があり、再び色々考えさせられた…

バレエの考古学

マリインスキー劇場がプティパ時代のバレエをステパノフ方式で記録していた、というのは重大なことのようですね。少し調べただけでも、解読結果がまとまってくれば、従来ざっくり「プティパ版」と呼ばれていた振付のどこがプティパ時代のもので、どこがプテ…

前衛音楽で踊る

岡田暁生は朝日新聞の批評でクセナキス&ダンスを「観ながら聴く」ことができなかったことを告白している、というか、「観ながら聴く」という態度を拒否しているが、ジャズで人が踊ることを彼はどう考えているのだろう。ジャズはいいけど前衛音楽で踊っては…

音楽批評にとっての音盤と放送の恩恵

先日ふとそんな話題になったのだが、関西在住で関西に軸足を置く音楽評論家、というのが可能だったのは、第一に20世紀後半のLPレコードによる音楽鑑賞の普及。これのおかげで、どこに住んでいようと、グローバル(当時の言葉で言えば「コンテンポラリー」)…