2018-05-01から1ヶ月間の記事一覧

1990年代の音楽学者の意識と存在

岡田暁生や伊東信宏、片山杜秀らが台頭したのは、色々な賞を得たり、吉田秀和が彼らの存在を特別なものとして意識して動きはじめた2000年代のことだとひとまず言えるとしたら、それに先だつ1990年代には、一回り上の世代の「音楽学者」が中年過ぎてからにわ…

師と弟子、先輩と後輩の間の主従関係/下克上は楽しいか?

大学院に進学したころに、もう「先生」の枠組を追いかけるのは古いな、と思って、それでもこれと見定めた「先輩」の背中を追いかけているところがあったように思うけれど、それから四半世紀過ぎて、オペラやピアノ音楽や西欧芸術音楽の理論と歴史を今の学生…

その「大学時代の年配の先生」とは誰なのか? - 体験談の調理法について

10年程前、最初日本で(セイチェントではない)レクチャーコンサートをしたとき、大学時代の年配の先生に「あなた、ああいう難しいお話しは一般の人には向きませんよ」と言われた。が、コンサートのアンケートには「一般の人」から「講義が面白かった。もっ…

リストvsタールベルク:身体と音響の分離

前のエントリーでも書いたけれど、「リストvsタールベルク」として語り継がれてきたパリのサロンの伝説について、上田泰史さんの綿密な調査にもとづく論考は画期的だと思う。「タールベルクのアルペジオ」は、中音域に置かれたメロディーを両手で交互に取る…

東大生は「誤配」を司る

礒山雅は、音楽ホールのスタッフからのメール(彼を誉める文面であったらしい)を、「その書き方では逆の意味に受け取られます」と添削したことがあるのだとか。添削された当人は大いに感銘を受けたようだが、細かいところまで気を張りすぎるオーバーワーク…

反動のレッテルを恐れぬサロン音楽論のしたたかな構え

ショパン、リスト、クララ・シューマン、メンデルスゾーンらは、パリのサロンをスプリングボードとして利用しながらも半私半公の社交界に批判的なスタンスで、この「批判的なスタンス」こそが近代の意味での「芸術」であり、彼らの構えは、「音楽(器楽)の…

大学教授が関西の音楽ホールをプロデュース

前にも書いたが、恩師谷村晃が日本音楽学会会長を退任する最後の執行部の会合(常任委員会という名前で今もこのしくみは続いているようだ)が阪大であったときに、次年度から海老沢敏の国立音大に執行部が移るというので、引継ぎの意味で礒山雅がオブザーバ…

CDの劣化、オーケストラにとっての「シューベルト体験」

メロス四重奏団(ロータス・カルテットの師匠ですね)によるシューベルトの全集を講義で使おう思って久しぶりに棚から取り出したら、盤面が劣化していてショックを受けた。が、同じ音源をiTunes Storeですぐに買えることがわかって、もうCDの時代じゃないん…

ポスト冷戦時代のシューベルト

週末にシューベルトの「未完成」についてお話をさせていただく予定になっています。色々考えて、使いたい演奏を並べてみたら、ミンコフスキーのピリオド・アプローチをベースにして、(シューベルトを演奏しているわけではないですが)バーンスタイン、クラ…

モーツァルトとロッシーニ:レチタティーヴォの唱法、「緩から急へ」の起源

朝日新聞が大阪国際フェスティバル名義でやったロッシーニ「チェネレントラ」は藤原歌劇団のプロダクションをもってきたもので、巨大な本から人物たちが出てくる演出についてはひとしきり何かを言えるのでしょうし、脇園彩が出るのが注目、ということで普段…

家庭とポストモダン

21世紀への転換期の日本でポストモダンが流行ったのは、ポストモダンと呼ばれる運動の実質が1960年代の新左翼なのだから、その子ども世代が親たちの文化資本を元手に打って出た(「失われた20年」世代にはそれくらいしか文化資本の元手がなかった)という核…

フィクションとヴァーチャルの混同、神話と歴史の混同、欲望と自由の混同

20世紀から21世紀の転換期に出てきたどことなく胡散臭い文化論を総括するとしたら、この3つが手がかりになるんじゃないかという気がする。たぶん、フィクションとヴァーチャル、神話と歴史、欲望と自由は欧米語では別の文脈・系譜を背負った言葉だからそう簡…

近代昭和の南禅寺外交

ブラタモリで、南禅寺界隈には今も財界人所有で非公開の邸宅が並んでいるのが紹介されていたが、そういえば、茂山家の人々が出てくる谷崎潤一郎「月と狂言師」も南禅寺が舞台ではなかったか。(南禅寺周辺ではなく寺の境内での月見だけれど。)大正末から昭…