その「大学時代の年配の先生」とは誰なのか? - 体験談の調理法について

10年程前、最初日本で(セイチェントではない)レクチャーコンサートをしたとき、大学時代の年配の先生に「あなた、ああいう難しいお話しは一般の人には向きませんよ」と言われた。が、コンサートのアンケートには「一般の人」から「講義が面白かった。もっと突っ込んだ話をして欲しかった」と書かれた

自分の体験をこのような定型に収めて語ることは、受け手のリテラシーを信頼する美味い調理法とみなすことができるのだろうか。

その年配の先生とは誰なのか、実名を挙げないと同年配の他の先生が、その不見識な先生と混同されて迷惑なのではなかろうか。その「年配の先生」と同年齢かそれ以上の物故者であるような日本の大学教授のなかに、あなたのレクチャーを歓迎するであろう人は当然複数いるはず。その程度には、日本の大学にも、ものをまともに考える個人がいる(いた)はずだと思うのですけれど……。

攻撃能力の高い話法であることは認めるが、敵味方の線引きがあまりにも凡庸ではないだろうか。

友敵関係の戦略について、受け手のリテラシーを信頼せずに、どうやって闘いに勝てるというのであろうか。

「個」として立つ覚悟をしてこその闘いなのだろうから、「敵」を正確に個体識別したほうがいい。そうでなければ、あなたの発言もまた、「個」として切り出すことのできない「群れ」の「匿名発言」のひとつへと沈んでしまうのではないでしょうか。(「笑点」風の大切り(←これもまたSNSのひとつの特徴的なありかたになりつつあるらしい)で「いいね」という座布団をゲットして終わり、みたいな。)そういうことでいいのでしょうか。