2017-04-01から1ヶ月間の記事一覧

問答無用な東国文化を柔らかい個人主義で論評する

山崎正和が、サントリー文化財団設立当時を回想して、当時の東大の先生たちの権威主義(目上の研究者を「先生」と呼ばずに「さん」付けすると烈火の如く怒る、とか、どこかで無礼者を問答無用に切り捨てる感じがあるわけですね)を指摘するのを読むと、彼が…

「ソ連はキモい」

都留重人の留学記には、1940年前後の留学中に、ハーヴァードの学生がソ連のことを「It's so weird.」といった、という話が出てくるらしい。山崎正和が1980年代の回想のなかで披露している話だが(オーラルヒストリー、220頁)、「ソ連はキモい」というのは、…

山崎正和

最初の章の満州時代でいきなり引き込まれて、まちきれないので、途中をとばして、阪大美学科ができた頃1970年代後半の章を読む。『演技する精神』は、阪大美学の演劇学普通講義をやりながらできた本だったと知る。(教科書に指定されていて、年度末にこの本…

リバーダンス以前

ビル・ウィーランが1994年のユーロ・ヴィジョンの River Dance でブレイクする13年前、1981年のユーロ・ヴィジョンで Time Dance というパフォーマンスの音楽を担当していたことを教えていただく。イメージとしてのケルト/アイルランドをバレエ風のステップ…

愛情の有効範囲

広瀬大介さんのお仕事は、ドイツ語とドイツ文学についてであれ、オペラについてであれ、ワーグナーやリヒャルト・シュトラウスについてであれ、対象への愛情を率直に表明する形になっているところが、美点でもあり、ときとして弱点に転じるのかなあ、と、傍…

80年代回顧

その1、軽やかに投げやりだったお気楽ニッポンhttps://www.youtube.com/watch?v=AlNmX5Y27vY&app=desktopその2、意外に骨格ががっちりしているジョン・ウィリアムズhttps://www.youtube.com/watch?v=9Rp4rLXbrDw

ドラクエの怪

佐村河内/新垣が騒ぎになったときに、吉松隆が「シリアスな芸術鑑賞とは別に、オーケストラ・サウンドの快楽に浸りたい欲望が広く薄く存在するのだ」と言って擁護していたが、芸術鑑賞ではないオーケストラ・コンサートの可能性に関心がある人は、ドラクエ…

計画立案

いつまでも気が若い中堅大学教員さんたちの言論は同じ所をグルグル回ってだんだん退屈になってきたし、ポケモンGOは♂♀ペアでだいたい揃ってやることがなくなってきたし、今年は演奏会に多めに行ければと思う。ここ数年で、日本のプロのオーケストラの定期演…

里帰り公演

先月、中村恵理が東京オペラシティの「B→C」に出て、東京と西宮で演奏会をやっていたが、彼女は今回の帰国でスザンナを歌ったらしいですね(新国立劇場)。「B→C」のプログラムには先の出演予定は書かれていなかったので、私は何も知らないままに、 ルトスワ…

提携公演

由緒ある大阪国際フェスティバルの公演だと思ってそれなりの恰好をして行ったらホールには平服の学生さんらしき人たちがたくさんいて、会場で流れるアナウンスには「大阪国際フェスティバル提携公演」と「提携」の語が入って、しかも影アナさんは、私の聞き…

楽曲解説をどう書くか

東条さんのように、「お客様へのわかりやすさ」を錦の御旗に掲げる人たちが、惰性と前例踏襲にこだわるあまりに、むしろ堅苦しい「教養」を手つかずに温存してしまい、反対に、「わかりやすさ」とは違う価値に着目する努力のほうが、教養の堅苦しさを別の姿…

新機能

おやっ! ピカチュウとの出会いを促すのだから、これは善きものなのでしょう(=至上主義者)。(歩ける範囲=「ちかく」は歩いて探せ。もっといないの?と思った人は、これを利用してちょっと先まで行ってみよう、という流れを想定しているようですね。珍し…

「外国文学者はキモい、全員クビだ!」

敢えてエントリーを分けたが、千葉雅也が言う「勉強はキモい」というのは、ひとつ前に書いた翻訳の諸問題=文学者は言葉を深く勉強するものだから、かえって出来上がった翻訳が奇っ怪なものになる、というのも、それですよね。そのときに、音楽評論家東条は…

古語・雅語を字幕でどう翻訳するか

そういう風に具体的に言ってくれたら、意見の対立、「問題」の所在がはっきりして、まっとうな対話になる。東条さん(←今回はさん付け)、最初からそうしてくれたらいいのに。*伊東信宏先生は阪大の大学院生時代に岡田暁生と頻繁に会って勉強会を続けていて…

僧侶は僧侶、学者は学者、千葉雅也は千葉雅也

真言密教と禅宗と浄土教は教義も寺・教団の在り方も少しずつ違うけれど、僧侶は僧侶だと思われている。モダンとポストモダンは違うといっても、その程度のことではないか。学者は学者だ。そして「勉強」という概念は、「僧侶の修行」みたいなものだから、特…

「哲学者」は「すべての市民」に含まれるのか、含まれないのか?

しかし思うのですが、関西に来て結構名の通った学校の先生になったんやったら、一回くらいは観世会館や大槻能楽堂に行ってみるとか、京都コンサートホールやフェスティバルホールに足を運んでみるとか、するもんとちゃうんですかねえ。もう着任から随分時が…

大阪フィル@おとな会

~オトナ度ちょい増しTV~おとな会 | MBS昨夜の録画をみたら、とてもいい番組だった。大阪フィルのどこに着目するか、というだけでなくスタジオのタレントさんたちのリアクションが興味深い。大阪の情報バラエティ番組は、橋下維新を育てた張本人と決めつけ…

「余は如何にしてポモとなりし乎」

Kindle版をスクリーンリーダーで聞き終わったときに、そういう言葉が思い浮かんだのでメモしておく。内村鑑三の著作(1895年刊行というから阪神大震災と地下鉄サリンの95年の百年前か)は読んだことがないので、読まずにパロディではあるが。勉強の哲学 来た…

学芸員はどのように勉強するか

為政者に反抗することが正義である、という立場を採用すると学芸員を人文家がこぞって擁護することになるのだろうが、学芸員には、キモさを発症することなく勉強した人たちが少なくない気がする。そして、「学芸員はガンだ」という話法は、むしろ、「文科省…

ビジネスの哲学 来たるべきビジネス・バカのために

もしかすると、共同体から身を引きはがしてビジネスを勉強すると、2つ前のエントリーで書いたようにキモいカタカナ言葉と機械の自動返信のような受け答えをするようになったりするのだろうか。だとしたら、一刻も早くそこを突き抜けた「来たるべきビジネス・…

キモいバカの話 知と言語と共同体

疑問1: 周囲の共同体とは異なる知性の在り方を模索するのが「勉強」なのだとしたら、なるほどそれはキモさを発症しそうだが、周囲の共同体に備わっている知性を習得することを「勉強」と呼ばない理由はどこにあるのだろう。疑問2: 知性が常に特定の言語と結…

日本を「法人化」したい人々

文章を売り買いするときには、個人が法人と対峙する必要が生じる。(大学や公的機関も、個人と組織の関係は「法人」と同じようなものでしょう。)直接やりとりする担当者が「法人を代表した個人」としてふるまわないと、そういうやりとりは円滑に進まないわ…

都市では「住民=市民」が「国民」であるとはかぎらない

ギリシャのポリスあたりを参照しながらナショナリズムをリベラルの側から批判的に吟味するときには、そういう視点からやるのが常道だったような気がするのだが、だとすると、19世紀のヨーロッパの音楽文化でいえば、ワーグナーでナショナリズムを考えるとい…

他の都市のオーケストラの大阪来演

広島交響楽団の音楽監督が秋山和慶から下野竜也にかわって、お披露目の大阪公演があった。金曜の夜のシンフォニーホールでブルックナーの8番。色々な意味で大阪のオーケストラの最近の路線の逆を突く形になっていて、新鮮でした。*まず、大阪のオーケストラ…

工業製品としての「音楽の散文」の現在

あらゆる音の断片がハリウッド映画音楽の様式でDTMされるところまで来ているのですね。フィレンツェのカメラータのモノディがナポリでリブレットとコンティニュオ(和声づけ)の手工業的な分業で量産されるようになって、グルックが鍵盤楽器の代わりにオーケ…

変数と観察

「空の範疇」とは、要は数学の解析で言う変数 variable の設定のことではないか。中性子の予想は、まさにそういうことですよね。データの解析において設定された変数(あるいは代数方程式で言う未知数)を裏書きする現象があとから発見された、と。(電子や…

21世紀の詩と散文

SNSにあまりにも特化して言葉をつむいでいると、140文字の散文詩、限定された文字数と言葉の特定の流通形態においてのみ意味や効果をもつ言葉の連なりを生成する技術が発達して、無意味もしくは非意味に逢着して消耗することが知られている。140文字の散文詩…

「マイノリティはメジャーにあやかる」と断定する者:芸術学の位置を詩学のアリストテレスに遡って自嘲することから何が発見できるか?

音楽は「理論的にマイナー」な芸術なので、哲学者や思想家がちょろっと(当人にとっては非本質的な仕方で)音楽に言及した箇所を、音楽家や音楽研究者が喜んで拾い出し、過剰な解釈や意味付与を行う、という傾向がありますね。文学や美術の研究者はあまりや…

名前を売りたい人々

十数年前の大河ドラマ「新撰組!」に岩倉具視が伊東甲子太郎の名前を覚えようとせずに侮辱する場面があったが、今思えば、あれは京のお公家さんの陰険さの表現というより、三谷幸喜がどこかで経験したのかもしれない現代の芸能界の風景だったのでしょう。*…

日本における Nationalities と Nationalism

「有事」という言葉が、特定の思想信条の人たちのジャーゴンではなくなって、実際に「箏が有る」状態になってしまうと、この島に住む者にとって、Nationality の定義はどうしても一部変更を迫られるわけですよね。「団」や「連」を組んでいる方々にとって、…