「マイノリティはメジャーにあやかる」と断定する者:芸術学の位置を詩学のアリストテレスに遡って自嘲することから何が発見できるか?

音楽は「理論的にマイナー」な芸術なので、哲学者や思想家がちょろっと(当人にとっては非本質的な仕方で)音楽に言及した箇所を、音楽家や音楽研究者が喜んで拾い出し、過剰な解釈や意味付与を行う、という傾向がありますね。文学や美術の研究者はあまりやらない(その必要がない)ことだと思います。

「音楽」だけじゃなく、芸術全般がルネサンスまでは「理論的にマイナー」だったんじゃないのかな。

アリストテレスが詩学という書物でちょろっと(当人にとっては非本質的な仕方で=アリストテレスの他の書物とは写本の伝承からして別系統である詩学という書物で)演劇に言及した箇所を、美学者や芸術研究者が喜んで拾い出し、過剰な解釈や意味付与を行う、という傾向がありますね。倫理学者や自然哲学者はあまりやらない(その必要がない)ことだと思います。

(whataboutism 風の混ぜ返しになってしまって恐縮ですが。)

芸術において音楽がマイナーに見える、というだけであれば「西欧(もしくは人類?)の視覚中心主義」という診断を下すことができるかもしれないけれど、より広い文脈で芸術全般がマイナーだ、ということになると、「視覚中心主義」という診断の妥当性が揺らぐ、少なくとも、芸術における音楽の地位をその証左として提出する前に吟味すべきことが出てくるのではないかしら。

マイノリティであるとはどういうことか、ある現象がマイノリティであるという診断は相対的でしかあり得ないわけだが、そのような相対性から一般的な法則を取り出す思考操作は、知的・科学的であると言えるのか。それが科学的推論だと言いうるとしたら、その推論はどのような方法と理念によっているのか。ポピュリズムがそうであるような数の争い、ある事柄の支持者が多いか少ないか、という統計を推論の妥当性の判断材料にする、というのは、あまり従来の知・科学ではなかったことのような気がする。AIの活用を見据えた21世紀の科学なのだろうか?

歴史学や社会科学は個人ではなく集団を扱うから、ある推論や現象の支持者・信奉者が多いか少ないか、という統計を活用するのはごく普通の操作だと思うけれど、哲学(者)にとって、「私の思考の支持者ははたして多いのか少ないのか」という評判の自覚は何を意味するのでしょうか。哲学(者)が遅ればせながらにお年頃の思春期を迎えて、モテ/非モテを気にするようになったということなのか、そして、思春期的なモテ/非モテの自意識こそが哲学における脱近代・ポストモダンだ、ということになるのでしょうか。

哲学は、今さらそこに拘泥しなくても、もとからそういうことがひととおり読み込まれていて、成人の処世術の上に築かれていたのではないのかと思わないではない。つまり、芸術や文学のなかに、ある年齢に達して一定の経験を経ないと理解できないものがあるように、思考・哲学にも、それを理解できるようになる年齢みたいなものがあるんじゃないか。マイノリティの自意識が、そのような成人の思考に持ちこたえるか、となると、少々怪しい気がしないでもない。

うっかりすると、「マイノリティはメジャーにすがって生きていくしかない、世の中とはそういうものだ」と言っているだけになってしまいそうなのだが。

(「勉強の哲学」を読むと、ユーモアとキモ系をキーワードにして、マイナー研究の倫理についても、ヒントが得られるのだろうか。)