直観 Anschauung ということを言い出すと、哲学と科学(数学)と芸術がひとつに溶け合う境地にたどりついてしまいそうだ。
ついでにこれを仏教の般若に結びつけると、それが松下眞一なんじゃないか、と思いついた。19世紀末の総合芸術に変わる知と芸術の総合、みたいな。
でも、直観というやつを「主観と客観」問題をめぐる特異点だとみなすと、大なり小なりそういう話になってしまいそうで、哲学史における直観の取り扱いを概観するようなことになったら大変そうではある。
とりあえずこういうときこそフッサールなんだろうなあ、と思ったら、やっぱり、現象学的還元なるものは直観を取り扱いながら進む気配があり、
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でも、フッサール本人よりも、気むずかしい御仁に手練手管で口を割らせようとするデリダ(その手練手管を「脱構築」と言うんでしたっけ)のほうが、読み物としてはずっと面白そうだよなあ、と思ってしまい(フッサールは哲学化されたユダヤの預言者だと考えればいいんじゃないか、という見立てであるようですね)、
- 作者: エドムント・フッサール,ジャック・デリダ,田島節夫,矢島忠夫,鈴木修一
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ひょっとしたら、哲学界にあまりにもこの種の偏屈(こちらが歩み寄って相手のペースに合わせる以外に関係を取り結ぶ手立てがなさそうな人々)が多すぎるので、どんな偏屈にも効く、万能の自白剤のようなものを開発しようとして出来上がったのが、いわゆる分析哲学なのではなかろうか、と思い至った。
映画のなかでスパイの口を割らせる自白剤はおそらく神経に作用するのだと思いますが、哲学は、どのように偏屈であってもすべて言葉なので、言葉を解毒してしまえば大丈夫、という発想なのでしょう。
そしてさらに、
「分析哲学は、そういう意味で、やっぱり哲学の領域限定で使うべきツールなんじゃないか」
とも思った。
「どんなに偏屈な相手でも、これを使えば、たちまちフレンドリーに会話ができます」
というのは、ドラえもんの魔法の道具のようなもので、便利な道具を日常生活で使いたい気持ちはわかるが、人間世界をすべてフラットで物わかりよく解毒するのは、弊害が大きすぎる。
市井の人々の言葉、さまざまな領域の「言説」をみだりに「言語分析」しちゃうのは、たぶん反則、モラル違反だと思うんだよね。哲学者は言葉(ロゴス)を世間に晒して生きる覚悟を決めちゃってる人々だからいいけれど、市井の人間の言葉を溶かしてしまうと、漏れてはいけないものまで一緒に漏れ出して大変なことになりそうな気がするのです。
(やってはいけない、全面禁止、ということではなく、たぶん、ちょうど野外調査や社会調査に設けられるような制約・条件が要ると思う。)
もはや松下眞一とは関係ないところへ考えが脱線しているが、
「哲学者のものは哲学へ、生活者のものは生活者へ」
直観であれ概念分析であれ、濫用、やりすぎ、使いすぎには注意しましょう、ということで、ひとまず。
- 作者: ハンナアレント,Hannah Arendt,志水速雄
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