2016-01-01から1年間の記事一覧

「コンテンポラリー」の正体

戦後日本のアートでさかんに言われた「コンテンポラリー/同時代」の概念は、海外での成功によって国内のアカデミズムを出し抜く在野の芸術家という類型に支えられていると思うのだが、彼らの国内での立場がどのようなもので、国外での立場がどのようなもの…

ロマン派音楽における替え管とヴァルヴの中間段階

トランペットは長管の高次倍音を駆使することでバロック期に黄金時代を築いたが、ホルンは一時代遅れて、リッピング、ハンドストップ、替え管を駆使して18世紀の後半から19世紀が自然倍音ベースの「ナチュラル」な楽器の全盛期になる。バロックのオーケスト…

武満徹の「コピーA」

武満徹のデビュー作「二つのレント」は自筆譜が破棄された幻の作品だったのを、藤井一興(とレコード会社)が発掘して1982年にレコーディングしたのだが、武満自身は1989年に改作を「リタニ」として発表して、1990年の「リタニ」の楽譜に、 この作品は、1950…

和気橋

今年の締めはこちらにて。橋のたもとになんか出てますが。

観劇体験

それにしても、東ベルリンの国立歌劇場のばらの騎士(私も大阪で観た)が最初のオペラ体験だ、というのは、やっぱり一回り若いんだなあと思う。外来引っ越し公演といっても、しょぼいのと凄いのがあって、なおかつ、国内にも本当にナショナル・オペラハウス…

音楽家の宮廷政治と哲学者のイデオロギー批判、強いのはどっち?

ワーグナーのくだりは、宮廷に深く食い込んで劇場を建ててしまった音楽家(思えば上田城を徳川に作らせた真田のようだ)と、彼に粘着するニーチェ(ポストモダンの源流のひとりかもしれないイデオロギー批判の人ですね)では、政治力が雲泥の差である、とい…

教養を財産で補うこと

書き出しの文体が仰々しく、このテンションで最後まで保つのか心配になるが、序章の最後で話者は正気に戻って本書の構成などを平熱で説明する。続けて政治史を丁寧におさらいするあたりから、カルスタ/ポスコロ的なイデオロギー論ではないドイツ音楽・ドイ…

manualな音楽:三輪眞弘の声のプラトニズム

三輪眞弘は、生身の人間による「音楽」と身体を通さない亡霊としての「録楽」の区別ということをしきりに言うけれど、彼の作品をまとめて聞くと、彼の言う生身の人間は絶えず手を動かしている。生身の人間とは手を動かす存在であり、自らの手を動かすことの…

大切な気づき

若くてあきらかに自分より頭脳明晰な人が、「こんなことも知らないのか」と唖然とする欠落に平然としている。そういう事態に頻繁に遭遇するのは、こちらが歳を取ったことを示している。51歳ということは、私が大学生だった頃の父の年齢だ。学生と同じ目線、…

小さな気づき

その1:年末に西田敏行が勇ましく大声で歌って最後に即興でハモりに回る、というのは「THE 有頂天ホテル」と同じですね(=「唯一無二」)。その2:こっちはずっと宙に浮いている。

7年ぶり

サントリーホールの夏のイベントのグルッペンは2009年だから、今日の京響(3群のオーケストラを揃えるためにエキストラがたくさん入っている)は7年ぶり国内3回目の上演になるようですね。7年前のサントリーホール同様、最後にもう1回演奏された。

唯一無二

人が絶対死なない連続ドラマはいいですね。お約束をほんの少し変えるだけでファイナル感を演出する職人たちのいい仕事。

芸術自己目的説への疑問:「もてない芸術」のために

芸術とはそれ自身以外の目的をもたない行為である、という主張は、自由と必然を対比して芸術を自由の理念の具現化であるとみなした近代西欧の市民(ブルジョワ)の芸術論(芸術の自律とか芸術至上主義とか)を、20世紀大衆社会における情報やメディアについ…

「期待」

音楽史のシェーンベルクの回がいつも欲求不満で終わるのは、モノオペラ「期待」のいい映像がないからかもしれない。(私が知らないだけで、これ!というのがあるのだろうか。)

堰を切る

この言葉がたんなる比喩ではなくこの島の地形に即した戦国の作戦であったことを印象づけたのは、真田丸のささやかな功績ではないか。

まず読め!

音楽批評の現在について大所高所から裁定を下しているつもりの学者たちは、はたして日常的に批評時評を読み書きしているのか?何十年か前の学生時代の思い出話をされても困る。俺たちはあんたにそんな話を聞きたいんじゃねーよ。小言の感じがまるで大蔵卿局…

娯楽と芸術の分離、サウンドマシンと実験装置の分離

オーケストラは20世紀に一方で巨大な音響体になり(悪しきロマン主義と誤解されている大ホールの倍管大音響の古典演奏も実はほぼ20世紀的なモダニズム現象だ)、他方で20世紀に小編成の合奏(室内オーケストラ)の試みが様々になされた。どちらが主か、とい…

「音楽家が自身を過大評価している」

たぶんこの文言を使いたかったから硬い文体を採用したのだろう。彼はなぜ、このタイミングでこの文言を「決めぜりふ」として投入したのか、どういう光景をどういうアングルで眺めてこの文言を思いついたのか。色々なことが丸見えであるがゆえに「誤爆」感が…

音を製造すると煩いと言われて責任を問われますが?

そして不用意な音を製造した者へのクレームの頻度は、他の分野の製造者へのクレームの頻度とさほど変わらないと思うのですが、違いますか?作者作曲家にまで遡って文句が届くとは限らないのは、創作と実演の分業の話であり、自作自演であれば作者自身が音楽…

独我論に酔う

それは、「音楽それ自体とはパーソナルなものである」ではなく、「パーソナルなこの感じをオレは音楽それ自体と呼ぶ」というオレ定義を言葉の上で倒立させて何かを言ったような気になっているに過ぎない。そして他人は酔っ払いの相手を続けるほど暇ではない…

野戦

晴天の野原で大御所様との対決するのは、なんとなく黒澤映画みたいだなあと思ったのだが、あの最終回の合戦シーンはCGが入っていない、三谷幸喜がCGを入れないで撮れる合戦シーンを設定した、昭和の映像へのオマージュが入っていた、という理解で大丈夫なの…

千客万来

12月18日19日20日

転倒防止

飛翔を経た着地がヘーゲルの精神現象学にも似たロマン主義の様式特徴であり、傷と治癒が宮台神学の骨法だ、というのはいいが、着地するためには飛ばねばならぬ、癒えるためには傷つかねばならぬ、と転倒した論法で通過儀礼を正当化するのは、悪しき教養主義…

一代記

最後まで家族から源次郎と呼ばれた次男坊の大坂での活躍は、物語の支柱であった父安房守の一代記の後日談に過ぎない気がする。

「世界の国からこんにちは」

日本で非英語圏から来た者どうしが英語で意思疎通する状態を、あたかもこの島がまだ経験したことのない未來の光景であるかのように思いなすのは、1964年の東京オリンピックや1970年の日本万国博覧会を知らない1970年代以後生まれの底の浅い歴史観、いわば、…

「ポスト真実」市場

オオカミ少年気質の人たちがひとしきり騒いだら収束するな。

リヒャルト・シュトラウスの孤立

ラヴェルの音楽は、パリでどういう音が鳴っていたか、スペイン趣味や万博や古楽復活やロシアの台頭などだけでなく、どういう経緯でウィンナー・ワルツが彼の耳に届いたか、というようなことを先に言わないと面白く語れない。もう一方のオーケストラの達人リ…

ジャズと民族音楽の影

カーチスの学生たちがものすごくマジメにシェーンベルクの室内交響曲を演奏していたり、若き日のゲルギエフがロッテルダムでストラヴィンスキーのピアノと管楽器の協奏曲を演奏した映像があったり、東京でも評判だったらしいユジャ・ワンのショスタコーヴィ…

大任を果たす

再び近藤正臣との会話がテーマ音楽のキューになった。みなもと太郎(=全共闘な糸井重里世代好みの)みたいに関ヶ原と幕末を因縁で結びつけるのは要らないと思うが……。やれることはすべてやった(色々至らぬことはあったけれど)、という話、涙のスイッチを…

酔わない歌唱の可能性

私は聴き手を冷静に突き放す表現を歌唱の様式として確立させまいとするかのような態度はおかしいと思っている。そういう詩があるし、それがモダニティというものだろう。酔わない詩、という概念がないと、東アジアの私たちはいつまでも唐詩の圏外に出られな…