2016-09-01から1ヶ月間の記事一覧
先の出現率の修正で、家の近所でPたちが定期的に盛大なパーティを催すようになった。一ヶ月ぶりに出たカイリューがそこに参加しているなど賑わっているが、同時に、ガスをぷかぷか噴出する者が出て、「都市化の波」という昭和40年代風の言葉が思い浮かぶ。(…
「初代ポケットモンスターに、当時のゲーマーたちは見向きもしなかった」という述懐を読んで、ああ、なるほど、と思った。10数年前、甥っ子たちはGBにハマっていたが、今は彼らが自分のスマホを持つ高校生・大学生になっていて、その親(私たちの世代)は、…
大阪フィル定期初日を聴いたら、インバルのマーラーの5番は四半世紀前のCDとほぼ同じテンポ、サウンドで、1980年代の「CD時代の幕開け」は、この人とかデュトワとか、もともと複製技術がなくても同一性を保持できる演奏家によってなされたのかもしれないな…
何らかの主題に沿って資料を収集した結果がアーカイヴであり、アーカイヴはその主題を取り扱うときに利用されるわけだが、しかし、それでは、いつどこで誰がどのようにしてその主題を選び取り、アーカイヴを計画して、そのアーカイヴはどのように運用されて…
コンピュータ(AI)の出現で、人力による先例の網羅的な検索と列挙はレガシーになったと言われる。そして人力による先例の網羅的な検索と列挙は、学問の基礎体力(のひとつ)のみなされているわけだが、ここにトリックがあるんじゃないか?確かに、網羅的な…
サッカーの失点を避けるチームと勝てるチームの違いというのがそれなのかもしれないが、弱い個体が身を護るために群れを作るのと、単体では突破できない壁を破るために、というか、そもそも今は存在していない(認識されていない)領域へ踏み出すためにチー…
主要人物が死ぬ前に必ず幻影を見るのはどういう意図なのか、ここだけは不審なのだが、今回は「軍勢をひとつの塊と思うな……」ですよね。見直すと、ここでBGMがピタリと止まって無伴奏になる。(「上田へ帰りたかった」のところは再び例の昭和風のギターが鳴っ…
俺がこの分野の代表だ、と言わんばかりの態度で世に打って出られるので、でしたら、そちらさまのおっしゃることが理解できるように当方としても諸々態勢を整えてみると、あっちこっちが隙だらけでがっかり。というのは、行列の出来る人気店が、行列を作らせ…
昨日は、モーツァルト(「ドン・ジョヴァンニ」)→ウェーバー(「魔弾の射手」)とシューベルト→ショパン→ヨハン・シュトラウス→チャイコフスキー→ラヴェル、という線で音楽としてのワルツ、聴くワルツのお話をさせていただきました。これまで鍵盤音楽史、舞…
八方ふさがりで打つ手なしの状態を(やや自嘲気味に)「詰んだ」と将棋用語で宣言する発言を最近SNSでよく見かけるような気がするのは、単に私がP情報を求めて、これまで足を踏み入れなかった領域をウロウロしているからだろうか。「ゲーム的」だったのかも…
その組み合わせはアウグスティヌスですね!俗世はコンピュータを神になぞらえないし、コロニーは文化・信仰の問題である以前に政治・経済の問題ですが、はじめに信仰ありき、で「真」を語る立場なんだったらしょうがない。この人はそういうひとだ、と。
あのシリーズの問題点は網羅性の有無とは違うところにある(そして網羅性とは異なる問題点を検出において、情報のデジタル化や検索の精度・速度は大した問題ではない)ということが、著者にはいまだに理解できていないようだ。そもそもあのシリーズは、「網…
今日の仕事の資料の準備で徹夜になってしまったが、そうすると夜明け前に不意に出た。これで港に探しに行く必要はなくなった。なんと気が利くことであろうか。
お膳立てされた流れに身を任せていると、どうしても相貌の悪い者が上位を占めてしまう。世間がそのようになるのは仕方がないかもしれないが、せめて我が身の回りだけでもこの状況を変えたいと思えば、おそらく正攻法は、相貌が好ましい者が実力で上回り、抜…
という大仰なSubjectで、内容も妙に厳重にレギュレーションを設定したメールが『音楽学』編集委員会事務局から届いた。全国大会発表要旨(既に大会事務局に送っている)を編集委員会に出せ、というのだが、これって縦割り組織の非効率(を末端・下流の個人に…
このブログに出しているものをアップデートして、大栗裕記念会から公開していただけることになりました。大栗裕記念会サイドバーから「年表・作品」に進むとPDFをダウンロードできます。
「遊戯と教育」の続き。 放送歌謡(ラジオ歌謡) vs レコード歌謡 教育映像 vs 娯楽映像 という対比に「親米グローバリズム」と「なんとなくリベラルな愛国」の対立(対比?)を重ねることができないかなあ、と思いついたのだが、そのような図式の来歴を考え…
竹馬の友、という言葉があるけれど、フラテルニテは合従連衡を排除しないのではなかろうか。友(情)というものは、失ったり、組み変わったりしてナンボである、と。ロマン主義活劇はもちろんのこと、ドイツ啓蒙劇も、ドラマである以上、そういう風になって…
佐藤卓己が、放送の発展時にはその教育機能に注目が集まっていたことを指摘しているが、ビデオゲームが(主に欧米で)さかんに論じられている文化的背景として、「遊戯と教育」というトポスがあったりはしないのだろうか。そして日本では、ビデオゲームが教…
時間ができたらcpの小さいピカチュウを探しに天保山に行こう!
「私のやっていることは私自身の役に立っている」というのは、自足と呼び、そこで止まったら有用とは言わない。学校で習わなかったのだろうか?
サブカルチャーの方面では、60年代を上手に総括して70年代をしなやかに生きた少数派な人たちが先駆者としてそれ以後のシーンで尊敬されているように見えますが、1970年代のメインカルチャーはどういう風になっていたんでしょうね。少し前に芸術新潮を読み直…
cpの小さい第一形態を進化させたらcpの小さい第二形態を得ることができてさらに味わい深い、というところまで来た。私は強い者が存在しないユートピア(ディストピア?)を夢想しているわけではないので、最終形態には、近所の競技場の2000越えを凄いなあと…
芸術文化について、人気のないジャンルは自然淘汰されればよいという考えの人もいるけど、そうすると、その時代に受けるものだけが生まれては消えていくだけで、受け継がれるべき芸術文化が断絶してしまう。公的な助成でマイナーなジャンルを存続させるのは…
「「ブラタモリ」見ても、今まで二流のインテリとされていた学芸員のような人たちが生き生きしているじゃないですか」という風な放言を見かけたのだが、館長(新書を出しちゃうような)を含めて、図書館・美術館・公共ホール等の職員のなかで司書・学芸員の…
承前。おそらく学歴エリートのなかで「勘の良い者」の割合はせいぜい2割くらいだろう。そしてこの割合は、世間一般とほぼ同じではないかと思う。勉学は、勘の良い者を選抜するシステムではないからだ。頭がいい人は勘も良いだろう、という風に世間が短期的に…
山の常連さんたちについては、次第にいいのが集まってきた。cpがせっかく二桁なのに20以上だったりすると、煩悩を捨てきれないのは何と憐れなことであろうか、と思ってしまう。我が家の近所では、最近小さいアオムシが妙に強くて、cp10がなかなか出ない。[追…
「音程を聴く」というのは、聴覚を研ぎ澄ます、というより、聞こえを遊び(ゲーム?)が活性化するような仕方で(ときには視覚的・図像的であったり言語的であったりするような)記号と結びつける方法のことであって、その意味では、「耳が良い/悪い」と言…
この島では「ゲーム理論」が舶来の新しい金儲けの方法として利用されて、経済に遊びがない、というようなことは言えるのかもしれない。広い空間(拡張現実のモンスターを追いかける遊びに興じて「モンスター化」していると周囲から見られつつある人々が群れ…
東浩紀が「ゲーム的」と言いだしたときにビデオゲームのことのみを想定してたわけではなかったはずだし、それ以前に囲碁・将棋・麻雀・パチンコに日本の知識人が(それを何と呼ぶかはともかく)一切の関心を払わなかったわけではないような気がする。日本の…