歴史事象としてのアーカイヴ

何らかの主題に沿って資料を収集した結果がアーカイヴであり、アーカイヴはその主題を取り扱うときに利用されるわけだが、しかし、それでは、いつどこで誰がどのようにしてその主題を選び取り、アーカイヴを計画して、そのアーカイヴはどのように運用されて今日に至っているのか。アーカイヴは無色透明公正中立ではなく、それ自体が歴史事象だ。

(故小林義武先生の専門は、バッハの遺稿の19世紀の伝承を追うことだった。批判版の楽譜を作る作業は、素人が思うような単純な作者崇拝ではなく、アーカイヴを歴史と見ることを含みます。)

最近、周囲でいくつかアーカイヴの継承の取り組みを具体的に見聞きする機会があるのだが、どうやらアーカイヴの移転において、今は、アーカイヴ自体が歴史事象だ、という視点は後回しにされる傾向があるようだ。

たとえば、長年運用されてきたアーカイヴには、現在の視点からみて不都合な特性があったりする。

(卑近な例では、図書館の所蔵品が「ポリティカルにコレクト」ではない内容を含んでいることが話題になったことがありますね。そして、もっと具体的で、なかなか公然と語られがたい事柄として、現行の著作権の観点から公共機関が所蔵していることを公言しがたい複製物がアーカイヴに含まれていることがある。でも、「ポリティカルにコレクト」ではない書籍が、昔はそういうものだった、という歴史資料であるように、複製物がアーカイヴされていることもまた、何らかの歴史的事実を告げている。)

何かを後世に伝えるためにアーカイヴがあるのだから、上手に取り扱って欲しいものである。

(「○○という団体は、2016年に当時の日本国法規に照らして不適切と判断した資料をすべて破棄した」というのは、これもまた、ひとつの歴史的事実として後世に伝わるわけだから、無色透明公正中立はあり得ない。)

東洋であれ西洋であれ、古典学には何らかの形でこうしたアーカイヴの取り扱いの知恵が含まれている。(法律を曲げて所蔵し続けろ、と言っているのではない。その資料の存在がどうすれば後世に伝わるか、それを考えるのが知性というものだから、自分の頭でどうするのがいいか考えて判断しなさい、思考停止はダメですよ、ということです。)博士と呼ばれる知識人は、目下の専門分野が未来志向であったとしても、通常、アーカイヴの基礎を身につけている。身についていない者は野蛮なニセモノである。

こういうのって、案外、state の運営に特化した「東大的」大学人が席巻する21世紀初頭の日本国(エヴァンゲリオンが地下鉄サリン事件の1995年へのリアクションであったようにシン・ゴジラは2016年のこの島の「東大的」側面の戯画に過ぎない気がする)の博士たちの真価が問われる事案だと思う。「大陸は古いものを大事にしない、辺境の島である我が国には古いものを大切にする美徳が生きている」と胸を張って言えるかどうか、それは、OECDにおける教育予算割合の順位、とか、公的補助金の多い少ない、とかの問題ではないのです。

敢えて言えば、この島では、坂東平野の野人の末裔が役人になっており、むしろ畿内の民間人の方がこういう事案の扱いには慣れているはずなんだよね。