1970年代のメインカルチャー

サブカルチャーの方面では、60年代を上手に総括して70年代をしなやかに生きた少数派な人たちが先駆者としてそれ以後のシーンで尊敬されているように見えますが、1970年代のメインカルチャーはどういう風になっていたんでしょうね。

少し前に芸術新潮を読み直して、1970年代半ばの日本史ブームの圧倒的な存在感に驚いたのですが、60年代の高度成長で得た蓄えを元手にして、「日本の歴史」を厚みのある立派なものと主張できるためのインフラがこの時期に整備された面がありはしないか。古代史の発掘と「明治100年」以後の年史・史料編纂ブームがあって、国宝・重要文化財のようなオーソライズも進んでいますよね。文化芸術における採算度外視の補助金行政も、1970年代から本格化しているように思います。

インド本国で廃れた仏教や、中国本土で廃れた漢籍の素養・伝統が辺境のこの島で存続している、という論法は、もしかすると、1970年代に「日本の歴史」を国ぐるみで正当化したときに確立したのではなかろうか。逆に言うと、2016年にもなってそういうことを言うのは、1960年代生まれが、子どもの頃に習い覚えたことをいい歳をして無修正のおうむがえしに繰り返している惰性なのではなかろうか、と思うのです。

(子供心に当時「大河ドラマ」がかっこよく思えましたが、あれは1970年代という時代の気分だったのかもしれない。善くも悪くもどんどん変わっていくインドや中国よりも、一度学んだことを記憶・伝承し続けようとするこの島のほうが立派なのだ、というのは、何故そう言えるのか、よく考えると、「変化よりも不変が尊い」という信念に、根拠なんてないですよね。ブラタモリも、その場その場で状況はどんどん変わっているんですよ、ということをフラットに語ることのできるサバけた人をナビゲーターに人選しているから面白く成立している気がします。)