愛情の有効範囲

広瀬大介さんのお仕事は、ドイツ語とドイツ文学についてであれ、オペラについてであれ、ワーグナーやリヒャルト・シュトラウスについてであれ、対象への愛情を率直に表明する形になっているところが、美点でもあり、ときとして弱点に転じるのかなあ、と、傍目に思う。「なぜそこがそうなのか?」と問われたときに、歴史が大好きだから、そういう芝居が好きだから、という一点でどこまで押し通ることができるものなのか。行けるところまで行ってみよう、で、随分遠くまで来ることができてしまったのが今現在なのかなあ、という風に見える。

(「愛情の有効範囲」というアイデアは、実は、広瀬さんを「批評」しようと思って考えついたのではなくて、昨夜、大植英次が大阪フィルで「カルミナ・ブラーナ」をやって、やっぱりこの人はツボにはまると希有な能力を発揮するなあと感心しながら、でも生きづらいだろうなあ、とあれこれ考えてたどりついたことだったりしますが……。

舞台上のパフォーマーが「対象に愛を注ぐ人」として生きるのは、バーンスタインのような巨大な先例があって、さらに遡るとフランツ・リストもそうだったのかもしれず、ヨーロッパの近代音楽の一種の系譜・伝統だと思う。でも、研究や学問は、これもまたひとつのパフォーマンス(行為)である、という立場がありうるけれど、そこに尽きるとは言えないところがありそうで、困難に遭遇したときにどうするか、というのは、それこそ「愛の問題」ですから、第三者がどうこう言うことではないんでしょうねえ。)

[以上、「誉め批評の是非」という当世風かもしれない問題設定を、内田樹(彼の場合は、レヴィナスを参照して絶対的他者への思慕を語りつつ、案外、根にあるのは自己愛に見える)の圏内に絡め取られないようにズラして考えてみた。]