構造と価値転倒:モダニズムという名のサイコロのからくり

バレエ・リュス(春の祭典)でストラヴィンスキーが学んだのは、常識・因習を反転させるとパリの観客が大喜びする、ということではないかと思う。

発想・技法としては、コロンブスの卵である。

それ自体としては、いかにもいつか誰かがやりそうなことだが、プラスの価値とマイナスの価値には互換性があるとみなす「構造」の発見と結びついて、色々な帰結を生んだことで、これが事後的に「事件」と認定されるようになった。

そしてバレエの踊り手たちには、舞踊を「構造」として捉え直すことができるだけの技術と経験の在庫があったから、バレエが20世紀に再起動できた。

二重三重の偶然である。

20世紀末のオタク文化・サブカルチャーにも、きっと同じように偶然を「画期」と事後的に認定できる契機・要素があるに違いないと信じて、日本の博士たちは日夜サイコロを振り続けているわけだが、どうなることか。

カミオカンテに微少な粒子が降るのを待つのと、「事件/画期」の到来を夢想するサイコロ振りは、似ているけれど何かが違うし、この違いを理系と文系の違いであると強弁するのは詐欺じゃないかと思うし、詐欺を見抜く自浄作用がないんだったら、博士コミュニティも底が知れていると私には思われるのだが。