増田聡、谷口文和「音楽未来形」(2)

増田聡、谷口文和「音楽未来形ーデジタル時代の音楽文化のゆくえ」ISBN:4896918991

(この本全般の感想は、その1に書いています。)

111-112頁で、岩城宏之「楽譜の風景」の、「第九交響曲」終楽章のディミニュエンド問題が取り上げられています。昔から、この話の取り上げられ方が気になっていたので、この機会に、思うことをまとめてみます。

素性の正しい楽譜(いわゆる「原典版」)を作る作業は、職人的な、まさに「テクノロジー」として、ヨーロッパで今も黙々と続いているわけですが、

(例えば、小林義武「厳格な資料研究に音楽そのものについての価値観が入り込む余地があるか」(http://wwwsoc.nii.ac.jp/msj4/conv/conv98/symp1.html)は、楽譜読解のテクノロジーと、美学的・経済的「価値」の関係がコンパクトにまとまっている報告かも)

「第九」終楽章のティンパニーが、「ディミニュエンド」ではなく「フェルマータ」なのではないか、という岩城氏の意見は、さしあたり、資料の「読み方(Lesart)」の水準の問題ですよね。

複数の「読み方」が可能な資料というのは、少なくないわけで、それは、同一曲における複数の稿や版(ブルックナーの多くの交響曲のように)とは、論理的な審級が違う。

別の「読み方」の提唱を、「演奏者の解釈による別ヴァージョン」(増田、谷口、脚注)と言ってしまうと、そういう楽譜読解の「テクノロジー」の機微が、消し飛んでしまう気がしました。

「別ヴァージョン」といった大げさなことではなく、ある「読み方」がより適切と思えば、誰はばかることなく、そうすればよいだけのこと、と思います。

なので、

「それが楽譜に書かれている指示である以上、その楽譜が訂正されない限りは、演奏家はその誤記に逆らうことはできないのである」(増田、谷口、112頁)

という言い方には、違和感を覚えました。

「民事」で有利な調停にもちこめそうな案件を、強引に刑事告発しようとして、警察に門前払いされ、大騒ぎ、みたいな感じ……。

嫌味な言い方ですが、

「音楽著作権」をしなやかに整理した知性が、ここでは、少々、萎えているみたいで、読みながら、「意気地なし!」と思ってしまいました。

岩城宏之のエッセイは、かなりトリッキーな、例えば、子供の悪戯「膝カックン」みたいなものだと思います。

あの人は、音楽の「戦後日本」的に硬直した部分への悪戯を、当時も今も続けていて、とても幸福な老年を送っておられるように見えます。「無邪気なおじいちゃん」路線が大成功……。

そういう立場の人を「大文字のクラシック演奏家」の文脈で召還するのは、「クラシック音楽」にとっても、「音楽家、岩城宏之」にとっても、面白いポイントを取り逃がすことになるのでは、という気が、私はしています。

(「芸人さん」を、未来への戦いの「盾」に利用するのは可哀想。私は、岩城さんには、穏やかな余生を過ごしてもらいたいと思っています。)