増田聡、谷口文和「音楽未来形ーデジタル時代の音楽文化のゆくえ」ISBN:4896918991
3/26、3/27の続き。増田さんご自身による「中間まとめ」を踏まえた、補足です。
これは、昔からずっと疑問に思っていることなのですが、
「クラシック原理主義」は、幻影だと思います。
論争を効果的ならしめようとしているうちに、「仮想敵」が実体化してしまうというパターンの典型。
私が学生のころには、民族音楽研究者の間で、しばしば、こういう「西洋音楽=強者=仮想敵」という論調が採用されていたように記憶しています。
(私が配属された研究室では、論文の冒頭に身体障害者のエピソードを紹介したうえで、民族音楽もそういうものだ、として、弱者としての「民族音楽研究」の擁護を訴える、というレトリックが、一部の院生の間に流行していました。)
その後、渡辺裕「聴衆の誕生」が強力な触媒になって、音楽社会学やポピュラー音楽研究が、この作法を継承し、今日に至るというところでしょうか。
(渡辺氏は、数年間、私や増田さんの「指導教官」として研究室に赴任しておられたので、その存在を、私たちが、やや過大に受け止めてしまっているところがあるかもしれませんが。)
新しい研究領域を売り出し、勢いをつける「踏み台」として、そういう言い方もやむをえなかったのかな、と思います。
でも、そろそろ、そういうレッテル貼りが非生産的なことに、気付いてもよい頃でしょう。
ジャーナリスティックな観点から言えば、「西洋音楽」の「反発力」は、もはや、相当落ちている気がします。(岩城氏や佐藤某は、どこか戯画的存在であって、本格的な「踏み台」になるとは思えない。)
それに、「人道的」(笑)な問題がある。
「原理主義」のレッテルをペタンと貼って、石を投げる。やる方は爽快でしょうが、やられた方は、石が当たって、ひたすら、痛いわけです(笑)。
最近の西洋音楽関係者を見ていると、石投げられても、逆ギレせずに、よくまあ、辛抱強くやってるものだと思います。
たぶん、これ以上の「イジメ」は逆効果。
「音楽未来形」の文体に、私は、
- 「仮想敵」に怯えない。
- むやみに石を投げない。
という倫理を感じました。
はたしてこれが、増田さんにとって、「今回限り」のことなのか。それとも、この先も、このスタンスで行くのかは、よくわかりません。
音楽関係者が「和平」を望むのであれば、
「つぶて」が飛び交わないためにも、増田氏のこの文体を支援する、彼を、この文体を続けざるをえなくなるポジションに据える、
そんな発想がありうると思うのですが、
日本の「音楽学人事の未来」は、それほど楽天的で、風通しのよいものではなかったりするのでしょうか? よく知らないけれど。
ますますのご活躍をお祈りしております!