増田聡「その音楽の<作者>とは誰か」(2)

excite. Booksのインタビュー
第15回 パクりパクられて生きるのさ - 増田聡インタビュー其の二
http://media.excite.co.jp/book/daily/friday/015/

で興味をひかれたので、途中をとばして(乱暴な読み方で申し訳ない)、終章「<作者>の諸機能」を読んでみました。

作者を作品の機能(現実の人格ではなく)とみなす視点は、この最後の部分で、フーコーに依拠しつつ出てくるようです。

いくつか細かい疑問はあります。

  • 佐々木健一的な作品の存立構造モデル(=20世紀美学における作品観の典型)において、既に「作者」は作品の機能とみなされているのではないか?
  • (ケージの作品を論じる際に)演奏者を「作者」(のひとり)とみなさないことは、「作品の力動性」への演奏者の関与の否定とは限らないのではないか。

(ケージの作品は、即興といった外見にもかかわらず、作曲者が特権的な「作者」機能を堅持していると思います。多くのポピュラー音楽家に刺激を与えたにもかかわらず、ケージの作品観は「古い」。この点は、庄野進氏のケージ論などを参照することで確認可能だと思います。佐々木氏は、ここで、無意識的かもしれませんが、自分に好都合なサンプルを選んでしまっているように思います。佐々木氏の作品論がバルト的「テクスト」論と対立しているのは、実は、「作者」概念ではなく、佐々木氏が作品の尊厳とする「力動性」概念においてなのではないでしょうか。バルト的「テクスト」は、紙の上のインクのしみが織りなす記号を「作られたもの」とはみなさない態度、文字がもつ「力動性」をやりすごすことで浮かび上がる虚構的な営為だと思います。一方、佐々木氏の立論では、人が物質から「力動性」を感得しないような状況、物質や情報を「作られたもの」とみなさない状況を想定していない。佐々木氏の「作者」概念はバルトより広いかもしれませんが、彼の「作品」概念は、バルト的「テクスト」論や、「動物的」ポピュラー・カルチャーよりも狭い。そういうことのような気がします。)

けれども、増田さんの書物の力点が、「作品」論より「作者」論にあるというのは、改めて、よくわかりました。

ヨーロッパの書物的な「単一の作者」概念は、キリスト教における「単一の神」概念と同型であるように思います。(「聖書=The Book」ですし。)

増田さんは、exciteのインタビューで次のように語っておられます。

増田 創作における「帰属」の契機というのは、無限に後退していくものじゃないですか。例えば僕の本にしても、それを書いた僕を「作った」のは両親であるわけだし(笑)、DJは無数の音楽をリミックスの過程に投げ込んでいくわけで。コード進行、一つのコード、いくらだって「その作品を形作った根源的な動因」の契機は遡っていくことが可能なわけです。でもCメジャー7thのコードを作った人を崇めたりしないでしょう。

でも、日本の外には、「万物の起源が単一である」という信仰が支配的な文化があり、キリスト教というのは、その典型であるわけですよね。

中世教会の音楽(musica)論において、音の調和は、「神(完全性)」が被造物の儚く不完全な世界に降り注ぐ光のようなものだったわけで、その意味では、ヨーロッパの音楽文化が、「Cメジャー7thのコード」の「帰属」を執拗に遡り、「神への帰属」を見ている可能性は否定できない。明治以来の洋楽受容というのは、そういうやっかいな文化を引き受けてしまったということなのだと思います。

ポピュラー・ミュージシャンも、しばしば敬虔な信仰の持ち主であったり、しばしば神秘体験を語ったり、「神に感謝」したりするようですが、これは、その種の「神話的」な「帰属」意識なのかどうか。ちょっと興味があります。

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(「作者とは何か」を読んでいないので、フーコーの他の書物からの類推ですが、)言説における「作者」の機能を複数に分散させるフーコーの提案も、少なくとも潜在的に、キリスト教的世界観との緊張関係の中でなされたのではないでしょうか。(フーコーは、「帰属」の項目で「神話」にも言及していますし。)

そしてヨーロッパでは、キリスト教的「単一神」を相対化する時には、ギリシアを召還するという習慣(因習?)があるようです。(フーコーが、「神話」という言葉を選んでいるのも、ちょっとそんな感じ。)

音楽でいえば、オペラは、ギリシア演劇復元の企てであっただけでなく、ギリシアの神々を後ろ盾にして、現世の快楽や感覚世界を肯定する、ルネサンスの集大成と見ることができるでしょう。

(ですから、16日の日記にも書きましたが、オペラにおいて、「単一の作者」を想定することが困難なのは、決して偶然ではない。オペラは、ほとんど「ヨーロッパの中のアジア」と言うべき芸能だと思います。)

そして、ギリシアは、要するにアジアの西のはずれですから、欧米vsアジアという20世紀以来繰り返し話題になる対立構図は、ルネサンスを、世界規模に拡大して反復していると見ることができるかもしれない。

情報社会という21世紀のルネサンスは、アジア主義と親和性があるかもしれない、という感じがします。

でも、「アジア」というのは、ヨーロッパが、非ヨーロッパ的なものすべてをそこに投げ込んでしまう、いわば「ヨーロッパの補集合」的観念ですから、「アジア」を標榜することは、それだけではヨーロッパを補完することにしかならないですよね。

フーコーは、「アジア的性愛」のテーマにたどりついたところで死んでしまったわけですが、

増田さんが考えるポピュラー音楽の「官能と憂鬱」は、「アジア主義」なのでしょうか?

もし機会があれば、直接お伺いしてみたいと思ったりもしますが、はたしてそのチャンスがあるかどうかは、今のところ、よくわかりません。