いずみシンフォニエッタ大阪第14回定期演奏会「武満徹に捧ぐ」

午後、いずみホール。

「Rain Comming」、「群島S.」という80年代以後のロンドン・シンフォニエッタのための作品、ガーデン・レイン、ウォーター・ウェイズという水にまつわる室内楽(良くも悪くも、武満徹といえば「水」というパブリック・イメージが今も強いようですから、この選曲も穏当でしょうか)とあわせて、ピアノの「コロナ」と管弦楽の「コロナII」の同時演奏がどうなるか、非常に楽しみにして行きました。

……それにしても、あんなに無惨で無策な結果に終わるとは。

数年前のジェフスキー「パニュルジュの羊」の忌まわしい記憶が蘇り、あの経験から何も学習していないのが明らか。がっかりしました。

このグループが、図形楽譜や、一種のゲーム的な指示譜など、演奏家に態度変更を迫るタイプの音楽には適性がないのがよくわかりました。

最初から本気で取り組む気がないということなのか。それとも、単にどうすればいいのかわからないということなのか。

スタッフにそうした試みを熟知する川島素晴さんが加わっているにもかかわらずこうなるというのは、彼が十全に力を発揮できない何かがこのグループにあるということなのか。

事情はわかりませんが……。

楽譜(と演奏家の関係)を問い直す、というのは二十世紀の芸術音楽のひとつの大切なテーマだったわけですし、その経験は、「前衛音楽」時代の一過性のお祭り騒ぎだったわけではないと私は考えています。

もちろん別の歴史観・音楽観の人もいるでしょうけれど、

少なくとも、二十世紀(以後)の作品を主なレパートリーにする団体がこうした問題系を素通りするわけにはいかないでしょう。その意味で、これは、いずみシンフォニエッタの活動の広がりを阻む、致命的な問題点であるように思います。

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ところで、

先週のフェニックスホールの演奏会と今回とでは、出演者が重複していました。同じ人間による、わずか一週間の間隔しかない二つの演奏会の印象がまったく違ったわけです。これは、どういうことだったのでしょう?

考えられることは二つ。

ひとつは、フェニックスホールのみ参加の人が、演奏に決定的に良い作用をもたらした可能性。

もうひとつは、いずみホールのみ参加の人が、演奏に決定的に悪い作用をもたらした可能性。

これは、両方の演奏会の差分を取る単純な算数ですね(笑)。

作曲家の猿谷紀郎さん、パーカッションの山口恭範さんは、フェニックスホールのみの参加でした。もしこのお二人が演奏にとって決定的であったとすると、そこから導かれる教訓は、

「生前の武満徹に近い立場の人の演奏は特別である」

ということでしょう。

実に順当な話ですが、でも、これは後ろ向きの考え方だと思います。奇しくも今年になって岩城宏之さんが亡くなったように、生前の武満徹と交流のあった人は数も限られ、人には寿命があるのですから、そんなことを言っていたら、今後、武満徹の音楽はいずれ満足な演奏ができなくなることになってしまいます。

いずみホールは「未来への旅」をシリーズの題目に掲げているのですから、次の世代がどうやって武満徹を継承するかを考えるべきなのだろうと思います。

では、何が阻害要因なのか?

演奏以前の問題ですが、ひとつ気になったのは、セッティングとステージマナーです。

どの曲も楽器編成や配置に趣向を凝らされているので、配置換えは大変そうでした。でも、それを差し引いても、客席から見ていると、随分段取りが悪そうでした。一度置いた椅子や譜面台を、あとで何度か置き直すなど、混乱がある様子。

ライトに照らされた下、衆人環視の作業ですし、事前に段取りを決めて、無駄のない作業を粛々と進めるのがホールスタップの心意気だったりするのではないのか、と思うのですが……。

一度気になりだすと、「客」の立場の人間は我が儘ですから、ちょこまか落ち着きのないスタッフの歩き方などまで、八つ当たり的に腹が立ってしまうわけで(笑)。

その上、舞台上のトークセッションの最中でも、裏から遠慮なく音出しや大きな話し声が漏れてきたりして、もう雰囲気は台無し。「何だこれは」と思ってしまいました。

具体的に改善可能なはずだし、特に今回は、静謐で厳しい武満徹の音楽なのですから、これでは、「不誠実な態度」で臨んでいる、と受け取られても仕方がないのではないでしょうか。

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今回も、先のフェニックスホールにはいなかった「あの人」がいずみシンフォニエッタを「指揮」していました。なぜ彼がこのグループのリーダーなのか、その理由が私には立ち上げ時から今までまったく理解できないのですが、それはともかく。

ほぼ同じメンバーによる同じ作曲家の作品が、「彼」の指揮と別の(プロ指揮者ではない作曲家の)指揮で、まったく仕上がりが違っていた、というのは、好き嫌いとか趣味で済まない、ほとんど算術的に明白な事実。

「彼」は、舞台上で「武満先生」を連呼していましたが、

尊称が単なるポーズではなく、心からの尊敬の表れなのだとしたら、「武満徹に捧ぐ」と題した演奏会がこういう演奏になって、「先生」に申し訳は立つのだろうか。道義的な責任を問われてしまうのでは、と思ってしまいました。

いずれにせよ、やってしまった演奏の責任は、内情がいろいろあるにせよ、ひとまず、指揮者=リーダーとして舞台に立った者が負う、それが組織というものだろうと思います。

もちろん、私が何を思い、考えたところで、「彼」には「彼」の事情と立場と生活があり、いずみホールにはいずみホールの事情と立場と方針があるのでしょうから、そんなことには、何の意味もないですが。

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この日のお天気は快晴。

「雨」のイメージが強かった武満徹さんは、自らに「捧げ」られた演奏会を、はたして、聞いておられたのでしょうか?