私は、教え子ではなく吉田寛自身が批評を書くべきだと前からずっと思っている。「誰かいい人知りませんか」と言われて、彼を推薦したこともある(その人は乗ってこなかったけれど)。私は本気だ。世間には私の言うことに耳を貸すような人がいないのは知っているけれど、私は本気だ(笑)。そして本人の同意なしに無理矢理書かせる、というのがいいんじゃないかと思っていたので、ここに書いてしまって、この手が使えなくなったのはとても残念だ(←現実感に乏しく虚空に空しく響く言葉)。
批評は、渡辺裕が必死に逃げるほど大層なことではないと思う。そういう役回りの人が何人かはいたほうがよさそうだ、という世間の知恵で回っているんだと思うのです。(これは上の言葉よりも多少は現実感を伴っていることを願いつつ、私は本気だ。)
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佐々木敦という人は、「ボク、教える人、キミ、教わる人」という関係性(それは著者と読者の関係性に通じると思う)を疑わないんだなあ、と前から変な感じがして、だから、わかりやすいお話を書くライターではあっても、批評なのかどうか、私にはよくわからない。そういう人から「批評」を「学ぶ」ことは可能なのだろうか?
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市長の口撃で朝日新聞の記者がtwitterを止めた、という話を「言論弾圧」と呼ぶのは違うと思う。
記者のtwitterが社の業務としてなされていたのだとしたら、そんなことで業務としての情報発信を止めさせた新聞社が報道機関としておかしい、という話になる。(でも、朝日新聞は、自社の業務へのクレームを受け付けないことで有名な会社だから、たぶん、twitterは社の業務ではなかったのだろうと思う。)
個人の責任と裁量でつぶやいているのだとしたら、そのつぶやきに、その記者が業務として知り得た情報が含まれているか否かが問題になると思う。含まれているとしたら、会社の業務として得た情報を私的に流用していいのか、という話になる。会社の業務と完全に切り離して、個人が独自に得た情報をつぶやいているのだとしたら、個人として闘うべきだし、その闘いがジャーナリストとして死活的に重要で、それが会社員としての立場と両立し得ないとなれば、会社を辞めて、個人の闘いを続ければいい。twitterを止めたのは、その人が、「ジャーナリストとしての私」より、「会社員としての私」を優先した、というだけのことではないか。(もちろん、どちらを選ぶのも個人の自由。)
そもそもの話として、社員記者が、社の業務なのか個人の裁量なのかよくわからないtwitterをやる意味が私にはよくわからない。(大学の先生とかも同様だけど。)
そこには、ルーズな「お目こぼし」はあっても、「言論の自由」の契機はほとんどないような気がします。
仕事として情報を取り扱っている立場の人が「情報発信」をはじめるときには、予めそのあたりの立場をクリアにしてからやるのが基本じゃないのだろうか。
新聞記者は、いついかなるときでも「報道の自由」の名の下に何をやってもいい、というわけではないはずだから。
(以上、「批評文」とされる文体が詩のような言葉になってしまって売り物にはならないことの実例として。)
[追記]
なんだ、吉田先生は本当は音楽批評がやりたかったのか。だった、そう言えばいいのに、素直じゃない。
でも、成り行きは大事なので、まずは色々な広がりができつつあるらしいゲーム道に邁進されてはいかがですか。ゲームライター、楽しそうじゃないですか。「俺は引きこもりだ」と言いつつ実は社交的で、社交的としか見えないのに、つっこまれると、引き籠もりですから、と逃げる自己撞着を抜ける良いキッカケなのではないか。
入口なんて、どこからでもいいんですよ。
20世紀の男は、そこに穴があればとりあえず入れる、ものであったらしいですが(「下品」ご容赦!)、21世紀の男子は、そこに入口があればとりあえず入る、ということでどうか。色道とゲーム道、2つのセイキの欲望の2つの形、とか(どんどん下品になってしまう……)。
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いや、別に意味はないです。ただ、語呂が良いなあ、と。性は政治を越える、新世紀ミュージコロジー。