だからさあ、前から何度も言ってるけど、前置きのないテクニカルターム、全然アリなんだってば、どうしようもない堂々巡りじゃんメンドクサイ男だなあ、もう

菊地 片山さんの文章って、アナロジーを一切使わずに、テクニカルタームを何の前置きもなくどんどん出して、しかもその意味が解るようにお書きになるじゃないですか。それって奇跡的なことだと思うんですよ。(菊地成孔、片山杜秀「ポップと退行 退行時代の批評」、『RATIO SPECIAL ISSUE 思想としての音楽』(別冊「本」)、36頁)

専門用語ったって、普通の日本語の文字列なんだから、そういうことが起きても不思議はない。片山さんの域に達してないのは重々承知してますが、院生のとき、音楽の論文は日本語でいったいどういう文体で書いたらいいのか、かなり悩んで試行錯誤して、あるとき、ああ、この書き方で十分に読める/通じるじゃん、これで方向は間違ってなさそうだ、と思ったのを覚えている。

今は、基本、その線をクリアしないと売り物として出荷できる文章にはならないんだろうなあ、と認識しております。それは、ほぼ暗黙の共通了解だと思う。

「音楽理論」と「美術理論」が指す範囲が著しく異なるのは(聴覚と視覚の分節能力の差異に関連するが)美術においては創出レベルと感受レベルが共有するものを指す「理論」が、音楽においてはひとえに創出レベル(と、それを規範的に承認する一部の感受レベル)のみが「理論」を専有していることによる

増田聡 on Twitter: "「音楽理論」と「美術理論」が指す範囲が著しく異なるのは(聴覚と視覚の分節能力の差異に関連するが)美術においては創出レベルと感受レベルが共有するものを指す「理論」が、音楽においてはひとえに創出レベル(と、それを規範的に承認する一部の感受レベル)のみが「理論」を専有していることによる"

なので「音楽理論が分かってない批評は無意味」という言明こそがほんま無意味なんだけどそのことを理解する「一般聴取者」は少ない。いかに聴取における「理論」が未発達というか創出レベルの規範に拘束されているか、を問わなあかんとおもうんよ。酔っぱらいの戯れ言をお送りいたしました

増田聡 on Twitter: "なので「音楽理論が分かってない批評は無意味」という言明こそがほんま無意味なんだけどそのことを理解する「一般聴取者」は少ない。いかに聴取における「理論」が未発達というか創出レベルの規範に拘束されているか、を問わなあかんとおもうんよ。酔っぱらいの戯れ言をお送りいたしました"

なんか小難しい酔っぱらいですが、要は、理論をひけらかさない文章をオレもサクっと書きたいなあ、とずっと思っているのだけど、書けない悩みで、オレは未だにロマン主義ってことみたい。

たぶん、「理論」なるものにビビりまくって、遠巻きにして直接普通に触れない体質になっちゃってるんだと思う。家元体質と好一対。しかも、書式とタームにアレルギー体質な山口修先生のところにいたことで、病をこじらせたのでしょう。

ガンバッテいただきたい。人生に悩みはつきもの。

マグダラのマリア―エロスとアガペーの聖女 (中公新書)

マグダラのマリア―エロスとアガペーの聖女 (中公新書)

今鳴っている音の和声的脈絡はわからないけど、この曲はイイ、と思うのと、あなたが教会で見つけた祭壇画の女性に魅せられてしまうのは、別に何も変わらない。

祭壇画の美しい女性がマグダラのマリアである、という脈絡は、文化的前提を共有する者にとっては、ある音楽のハーモニーを感得するのと同じように、その絵を「見る」体験に編み込まれているかもしれないし、文化的前提を共有しない人間にとっては、見えているものの外部にゴテゴテと建て増しされた知識かもしれない。

彼女の傍らに香油の壺があるのは、「一部のひとえに創出レベル(と、それを規範的に承認する一部の感受レベル)のみ」の都合による。

つまり、音楽が聞こえてもハーモニーが聞こえない人がいるように、絵が見えてもマグダラのマリアが見えない人はきっと少なくない。画面中央で十字架にかけられた男の姿が見えたとしても……。(わたしも、この本を読むまで何も見えなかった。)

そして学習によって和声のコツをつかめる人がいるように、図像的知識を学習によって会得することは可能だし、いつまでたっても、そういうことができないし、したくないという人もいる。

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たまたま、今現在のあなたは、あまり絵画がよく見えておらず、音楽については、(九州から大阪へ来て音楽学の研究室に入り、自分がそれほどではない井の中の蛙だったとショックを受けたかもしれないけれども)水準以上に聞こえているのでしょう。そして、たまたまそのような状態であるあなたの文化的な視力・聴力からリクツを組み立てようとすると、上記の引用のようなことになるのかもしれない。

でも、それはたまたま、今のあなたがそうである、というだけのことに過ぎません。

それだけでは一般性をもたないので、人は、実存としての自我の能力を、何らかの手段で補正しながら理論を組み立てるわけです。それを知性の働きと言うのだと思う。

ところが、あなたは、それを拒否する。しかも、拒否するにはしかるべき理由があるのだ、と次から次へと屁理屈を並べ立てるわけだが、単に、自分の実存としての「実力」を直視するのが恐いだけなんじゃないか、と私は疑う。違うんだったらいいのだけれど。

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いずれにせよ、「音楽特殊論」に立てこもっても話は一向に進まない。坊や、恥ずかしがらずに出ておいて〜、さあ、パンツを脱いで、まあ、もう立派なオトナじゃないの(←学童の陰湿なイジメじゃないよ)。

(以上、大学の冬学期開始で、そっち方面から妄言が大量発生する季節が再び巡ってまりましたので、予防のために薬剤散布。)