「過去」は後方にあるのだろうか?

「過去」とは立ち止まって振り返らないとアクセスできない場所のことであり、「未来」とは前進して到達すべき場所である、というように、時間を空間に投影する世界像は、なにかとても平板・貧弱ではないだろうか。

そのような、まるで死ぬまで走り続ける陸上選手のような世界像のなかにあるのは、せいぜい、懐かしんだり後悔したりする対象としての記憶・思い出のみ、ということになりそうだが、そんな薄い世界像を生きている人のどこに哲学が生成するのか、ちょっと信じがたい。

ひょっとすると、「現象学的還元」なる言葉は、走り続けるために邪魔になるもの(あ、これが「雑念」か)をすべて捨てて身軽になることであり(=ランニングシャツ一枚の薄着状態)、「純粋持続」は、そのように身軽な姿で頭をカラッポにしてひたすら走ることと理解されていたりするのだろうか。

もし、人生がそのような死ぬまで離脱できない「ゲーム」(徒競走めいた)以上でも以下でもないのだとしたら、なるほどそこに「反省」が入り込む余地はないか……。

いまここ(=現在)において、既にあるもの(=過去)と、まだないもの(=未来)をどう関係づけるか、考えよう/やりようは色々あると思うのだが。

そして、既にあるものは刻々と「いまここ」から遠ざかりつつあり、まだないものが刻々と「いまここ」へ迫り来つつある、という風な「喪失」と「獲得」の感覚は、時間の捉え方として、自明でもなければ、必須でもないと思う。

少なくとも、そんな風に限定された枠組みにとらわれていては、音楽と自由につきあえなさそうで……。

時間の比較社会学 (岩波現代文庫)

時間の比較社会学 (岩波現代文庫)

前にも何度か書きましたが、松下眞一が仏教こそが徒競走のゴールだと信じて一生懸命に壮大な時間論を書き/走っていたときに、この論文が同じ岩波の『文学』に出たんですよね。