間違いが多い……

中学校のシャルパンティエ

中学校のシャルパンティエ

音楽史は歴史学の一面があって、だから、この音楽のこの現象を何と呼ぶか、それなりのこだわりがあるのは、大阪城を造ることになる人を「秀吉」と呼ぶか「藤吉郎」と呼ぶか「筑前」と呼ぶか、「木下」なのか「羽柴」なのか「豊臣」なのか、その伴侶は「淀殿」なのか「淀君」なのか、というのとちょっと似ている。

名前とは何か なぜ羽柴筑前守は筑前と関係がないのか

名前とは何か なぜ羽柴筑前守は筑前と関係がないのか

歴史学は研究の蓄積が膨大にあって、その気になって詮索すれば、このケースはこう考えておけば、おおよそ大丈夫だろう、と目星がつくようですが、音楽史(西洋の)は、日本にはそれほど人がいないし、研究の厚味もそれほどないから、あっちこっちに「穴」があって、日本語の文献を詮索しても、なんだかよくわからないままになっていることが色々ある。

吉田秀和は、屈託がないように見せて、落とし穴にはまらないように相当あれこれ用心しながら書いていると思う。ややこしいことから逃げる逃げ方の達人。

で、屈託のないエッセイの文体だけマネすると、穴に落ちる。

「ベートーヴェンの1番はモーツァルトの亜流だが」

は、言文一致体でない明治の小説を「江戸文学の亜流だが」と切り捨ててしまうのに似た感触があって、しょうがないと思う反面、ちょっとがっかりした。

「専門家だったらそうは考えない」ということではなくて、たとえば、たどたどしくてもいいからモーツァルトやベートーヴェンの簡単なソナタの譜面を弾いてみるか、あるいは、アマチュアオーケストラでモーツァルトとベートーヴェンを弾いてみるか、とにかく、自分で譜面を読んで、弾いてみたら、既に最初の頃からベートーヴェンはゴツゴツして、モーツァルトとは感触が違う。

そう言ったって楽器を手にするのはそんなに簡単じゃないから、やっぱり「高い敷居」を設けていることになってしまうかもしれませんが、それを言うなら、明治の恋愛小説を読み通すのも敷居は高い。かなり高い。楽器を弾く以上に高いハードルかもしれない。

だからこそ、と言うべきなのか、文字の読み書きが得意であれば、楽譜を読んだり楽器に触るのはそれほどではない状態でも音楽エッセイが書けてしまえる、という現実があって、結局、「文字の読み書き」を習得した者は強い、ということだと思う。

(さらに東大でフランス文学やって、育ちのいい感じでピアノが弾けて、ガイジンと国際結婚して鎌倉に住むと最強になる。それが吉田秀和。『……シャルパンティエ』刊行の2003年頃というと、水戸の吉田秀和賞が後継者選びの場のような雰囲気になりつつあった時期だけれど、10年経って、それはもう決着が着いた。あの文体・スタイルは一代限りで、継承が求められたわけではないということで、「亜流」を封じる結末は、よかったんじゃないでしょうか。)

もてない男訳 浮雲

もてない男訳 浮雲

こういうのを見習って、ベートーヴェンの1番をモーツァルトの亜流でなく演奏したり、喧伝したりする言葉が活字にならなければいかんということですかね。

(実力主義で東大へ入る人間じゃないと信用できない、とか、単著のない者に人格を認めない、とか、「文字の読み書き」を習得した者は周囲を鉄壁の守りで固めることがあるので、大変そうですが……。「武器を降ろして、怖がらないで。怯えているだけなんでしょう」の姫様精神で臨めば、本の虫とコミュニケーションが成り立つのかしら。)

それにしても、「六分音符」「十二分音符」という言葉がそのまま残っているのは、いくらなんでも音楽用語の校正が弱いと言わざるを得ないのではないだろうか。

(関係ないですが、「弱起」という訳語が浸透していないのは、この種の漢字を並べた訳語が、読む分にはいいけれど、音楽の現場で、話し言葉でやりとりするときに、「ジャッキ」という音だけだと意味が伝わらないからではないかと思います。「ジャッキ」は直観的でなく、使い勝手が悪い。

拍や拍子(小節)に関わる言葉で、ドイツ語(Auftakt)でも英語(up beat)でも、Takt や beat の語が入っているのに「ジャッキ」はそうじゃない。机の上で考えた悪い翻訳だと思う。音楽にはこういう実用的、直観的じゃない「お役所用語」風の訳語が多い。言葉の暴力(笑)。邦楽は、他の芸事もそうですけれど、サワリとか、絶妙の和語があって羨ましい。)