やがて一本の竹のひびきは12本もの竹を呼び

YouTubeで交響組曲「ライジング・サン」を聴きましたが、尺八12本も使ったんですね。ゴージャス。新しい物語によって、むしろ一層の感慨が。吹奏楽に編曲したら、吹きたい人いるよ。

http://anond.hatelabo.jp/20140208001756

ここはあの曲で、これはこの曲と探す楽しみもある。

この曲を書いた人には、ゲンダイオンガクの柵の中に囲い込むのはもったいない種類の才覚があるのではないか。そういう面をこそ褒めて伸ばすことはできないのか。

作曲時の諸事情から、いいぐあいに肩の力が抜けて、いいぐあいにある種の緊張感が持続する絶妙のストイシズム、という気がする。わかりやすく書こうとする意識もプラスに働いているはず。

交響曲よりこっちのほうがいい。

(と思って、そのあと交響曲もYouTubeで探して聴いたら、ブルックナーの8番みたいなファンファーレとか色々あってマーラーになってからあと、音が潔すぎるくらい少ないのに、しぶとく最後まで保ちますね。じたばたせず、でも決して諦めない粘り腰が、作曲家の持ち味なのかもしれない。)

シューベルトは「ベートーヴェンのあとで何が書けるというのか」と言って苦しみましたが、佐村河内のあとで誰が何を書くか、なめてかかると返り討ちにあうかも。

(前に私が聴いた大友・大阪響の演奏は、ひょっとすると同じ指揮者と東響もそうだったのかもしれませんが、轟音を目指しすぎ、音が少ないから音圧でカヴァーする、という戦略に私は納得がいきませんでした。大友さん、京響とやるときはそうでもないのだけれど、大阪響では、しばしば鳴らしすぎる印象がある。)