借りたものは返す、貸したものはきっちり回収する

フロイトの精神分析はどうしたって患者が医者に依存・転移してしまうけれど、でも、有料の治療で金を払う・受け取ることで後腐れのない関係になっている。だからいいんだ、と柄谷行人が座談で言っているのを読んで、記憶に残って、ことあるごとに思い出す。(新年度で学校が始まったり、お金関係がリスタートする時期には特に。)

サヨクとかリベラルとか、それはそれとして、こういう身もふたもないことをボソっと言うから、この人(や蓮實重彦)の座談は面白かったように思う。(座談を読むのが主で、座談を面白く読むためのサブテクストとして単著を斜め読みしていたような気がする。だから「日本の批評史」とか、小林や吉本にさかのぼったりしながら単著主体で一生懸命「理論」を要約する人の気が知れない。あと、浅田彰には、そういう面白さは……なかったな。)

柄谷行人蓮實重彦全対話 (講談社文芸文庫)

柄谷行人蓮實重彦全対話 (講談社文芸文庫)

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他人の心を覗く/他人に身をゆだねる、という、まあいわば快楽原則みたいなものが、金銭の授受という身もふたもない現実原則と組になって走っているのが大事なことで、有限の人間には、それくらいしかできない、ということだと思う。

で、人生、八割がた、それで回ってますよね。

貸し倒れのリスクとか、そういうケースばかりを強調すると世の中が不安定になって、見返りを期待しない贈与とかいうことを反作用的に言いたがる人が出てくる。確かにそういうこともあるけれど、多少の増減はあってもレアケースだと思う。というか、そういう、無償(=無限)の出現がレアケースにとどまるように、コツコツ時間がかかっても借りたものは返す、貸したものはしっかり回収する、ということだと思うんですよね。

(何が言いたいかというと、ひとつは、師弟関係といえども、「キミのためになるから、これをやりなさい」はダメよ、というこっちゃ。師弟の「愛」なんぞというものは、男女の性愛と同じくらい、きれいごとでは済まないところがあるのだから、ちゃんとしとかな、アカンよね、ということ。

(「チマチマ心配せんでも、ワシがあとの面倒は全部見たるがな」と太っ腹な財産(いわゆる「文化資本」なるものを含めて)がある人は、堂々と愛を貫き、豪快にやっていただければ、まことに景気のいいことで口を挟む必要はないわけだが。)

そしてもうひとつは、矛盾するかもしれないけれど、たっぷり「無償の愛」を長年にわたって注いだ、という事実を、世間のせちがらい「数値化・効率化」の風潮に流されて、早計に「貸し倒れで何も戻ってこないんだ」と諦めて、自信を失ってしまったらそこで終わるよ、ということ。

8割がたは、巡り巡って何かが戻ってくるし、ファイトがあるなら、こちらから積極的に「取り返す」べきだ。

でかいところが「一人勝ち」する、という物語が最近は割合広まってはいるけれど、それぞれが、取り返せるものを小さくコツコツ取り返したら、案外、水ぶくれしてたものがしゅるしゅるしぼんでいったりすると思うんだよね。

もちろん、返すものは返さなアカンが……。

その先に見えてくるのがリアルなサイズなのであって、「思い出」の中のありえたはずの資産を脳内で計算するんじゃなくて、実際にちゃんと精算・換金する。脱デフレって、そういう話とちゃうんやろか?)

[欲しいものをいただき放題、お前のものはオレのもの、という願望は「コピペ天国」幻想と重なり合うところがあって、たぶんその先にはフリーセックスの夢みたいのがあるんだろうけど、それは、現実をあまりにも乾いたみすぼらしいものだと思い込みすぎる反動で、妄想が肥大しているケースが結構あるんじゃないだろうか。人がどのようにして心を病んでしまうか、一概に決めつけて物を言うのは危険なことであるにしても。]