誤字の文化史?

コピー・複製という近頃の機械のちょっと気の利いた機能を後生大事に「問題化」する程度のことで、文化とテクノロジーの関係の可能性の中心を射貫いているかのような雰囲気を醸し出すことができるのだとしたら、

誤字脱字のない書物が事実上不可能である、という現実が「作品論」なるものとどのように関わるか、ちったあマジメに考えた方がよかろう。(蓮實重彦が遂に序論を出してしまったフローベール論で、その話をしつこく書いているが。)

はてなは、バックグランドでごちゃごちゃ動いているらしき機能のせいなのか、ブラウザへの直打ちすると、ときどき挙動が変。

誤字脱字は、言霊の呪いとはあんまり関係ないと思うよ。「読者」の立場と幻想を絶対視すると、ワナにはまるみたいだね。くわばらくわばら。

(一般論だが、漢字変換を「目」で確定できない人たちにとってワープロのように「触覚」で文章を作成できるのがどれほどの福音か。そしてそこには、ブロークンな語りならぬ、ブロークンな文字選択が入り込む可能性が多分にあるわけだが、そういうのも、その人の「早死に」の兆候なのかねえ……。世界は広いのだよ。盲人の音楽とは何か、という問題とも関わる話だと思うのだが。

というより、人「文」科学で、文字とは見るメディアである、と決めつけたりするのは、めっちゃ頭悪そうじゃない?)