助演は人間国宝、みたいな感じ?

庄司紗矢香とブレスラーは同じプログラムで全国7箇所を回るんですね。東京は明後日。

[追記:ホルヌング&河村のデュオも、大阪の他に大原美術館と東京文化会館(小ホール)でやったことをあとで知る。]

[音楽の性格から考えると、庄司&ブレスラーが小さな空間、ボルヌング&河村は大きな空間でやったほうがよかったかもしれない。「事業規模」は前者の方が一回り大きくて、だから逆になっちゃったようですね。

河村チームは兵庫のオケ定期にも出ているから、帰国渡航費や滞在費はどこがどうしたのだろう、とか、別に客が知ることではないけど色々やりくりしていそうだが、庄司組は丸抱えの大名行列に見える。

興行形態として「室内楽っぽい」のは前者だが(関西でコンチェルトと室内楽を短期間に続けて披露、というのは地元在住の音楽家でも今ではめったい見られない晴れやかな出来事です、「旬の音楽家」のいろいろな面を複数の場所で短期間に拝見するチャンスがあるのは今の関西ではオペラ歌手くらいじゃないかなあ、だからやっぱりオペラは関西の「最後の牙城」と思ってしまうが閑話休題)、しかし舞台上の音楽のスタイルは、後者のほうが「古き良き室内楽を今に伝える伝説の巨匠」感満点なのだから、世の中はややこしい。それが「音楽産業」(の現在)。どちらがいい、という話ではなく、両方を並べることで見えるものがある。]

邦楽では、若手が名人の胸を借りる、という考え方なのか、自分の名前で開く演奏会に師匠筋の大家が「助演」として出演する習慣がありますが、そういう感じの組み合わせに見える。

こういう組み合わせだと、若手さんが萎縮してしまったり、舞台では格の違いが歴然としてしまって、「まだ未熟者で……」という結果になる場合もありますが、ブレスラーが敷いたレールの上を踏み外すことなく最後まで歩いたのだから、見事合格ということになるでしょうか。

曲目からシューマンが外れて、アンコールもヴァイオリンが入る2曲は派手なところが一切なく、素直に歌う音楽が選ばれていましたが、このヴァイオリニストとやるのであれば、こういう曲がふさわしい、という判断を通したんじゃないかなあ、という気がしました。シューマンは違うということかもしれないし、ブレスラーの望むシューマンを彼女が今弾くことはできなさそうだ、ということかもしれないし……。

こういう頑固さ、音楽についての考えを曲げないのは、サッカーのオシムみたいな感じがする。初共演でもあるし、基本からやろう、と。

あと、アンコールで弾いたショパンは、cis-mollのノクターンも中間部にマズルカが大胆に割って入りますし、もうひとつはa-mollのマズルカ。そしてその間にヴァイオリンと弾いたブラームスのワルツも独特に癖のあるリズム感で、ああ、そういえばブラームスは若い頃、ハンガリーのヴァイオリニストの手引きで各地を回って、ヨアヒムもハンガリーのユダヤ人だったなあ、ということを思い出した。シューベルトの両親も東のほうから来た人たちですね。

まあ、彼のレパートリーの中心がこの辺だということだとは思いますが、中欧の音楽家、なんでしょうね。