「同調圧力」の机上・紙上・二次元表現における過大評価:短絡的な息の短い思考を叱る

同世代で「子育て」なるものをやった方々は、どうあがいても一度それをはじめると20年くらいは年期が明けないわけですから、それに比べたら息の短い話ではありますが、

最短でも一年、おおむね3〜5年くらいの期間を考えて行動しようと思うと、色々考え方が変わってきますね。

毎日毎週このときにはこれをやる、みたいのをそれだけの期間積み重ねていかないと結果が出ないわけで、イレギュラーに「ちょっかい」出してくるような動きへの対応も変わってきそうだ。マラソン感覚か(笑)。
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古い音楽(失われた文化)への関心は19世紀のロマン主義とナショナリズムからはじまっている。手始めに言葉・文学・うた・習俗のような人間の失われた営みを蘇らせようとして、そのあと古い様式の建築とか楽器の復元とかというモノの復元へ進んだのは、やりやすいこと、手間のかからないことからはじめて、次第にプロジェクトが大がかりになってきたということかと思う。

(権利宣言とか憲法制定とか、書類作るだけだったら、実は簡単なことなんですよ。それが三次元世界に実装されるまでにはヨーロッパだって100年以上かかっている。)

楽器の復元は19世紀末や20世紀初めから本格化しており、第二次大戦後から現在まで続く動きは第二波に相当する。それはちょうど、バッハやモーツァルトやシューベルトの「旧全集」が出たのが19世紀の終わり、それを批判的にアップデートする「新全集」に置き換えられたのが第二次大戦後だったことに対応していると考えれば、わかりやすかろう。

家族のような「親密圏」を母胎にして古い音楽を復興させましょう、ということでは、ドルメッチ一家が有名だったし、クイケン一家は、ここでも最初というより、第二波だろう。いわば、ドルメッチという家族コンソートの「旧版」があって、第二次大戦後に、クイケンが「新版」にアップデートしたわけだ。

(ドルメッチが古い音楽にのめりこむきっかけは、ベルギーに行って、フェティスが種をまいたヒストリカル・コンサート運動に出会ったことだと言われているので、ベルギー、オランダのあたりで古楽に目覚めると、家族コンソートがやりたくなるのかもしれませんね。いずれにせよ、クイケンが最初、ではない。)

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「やりやすいこと、手間のかからないことからはじめて、次第にプロジェクトが大がかりになってきた」

といえば、近代化というやつは、実際に山を削って鉄道を通したり、その土砂で海を埋めて工場作ったりして、ルイ14世のヴェルサイユどころではなく大々的に自然を加工していったわけですよね。

自由経済資本主義か計画経済社会主義かの冷戦は、そういう大規模な加工のエンジンとして、どっちがいいか、という二大メーカーのシェア争いだったようにも見える。

谷間をダムにするから村を立ち退け、とか、そういうことをやって、そのときのスローガンとして「歴史は前へ進まねばならぬ」と言われていたわけだ。ブルドーザーが突き進むイメージですよね。

この種の大規模開発のスローガンとしての「進歩・前進」と、

個人の意志なんてのはさほど強いものではなく、同じ場所・環境に長い間封じ込めておけば、構成員は自ずと均質化していくだろう、というエントロピーの法則や浸透圧に似た「同調圧力」は、文脈も働きも随分違うと思うのだが、「進歩・前進」(レヴィ=ストロースなら「熱い社会」と言いそうな)が「同調圧力」(「冷たい社会」っぽい感触の)であったとは、これいかに。

手近な概念を適当に拡張して遠くのものに適応するのは、「矮小化」ではなかろうか。

幕末鼓笛隊‐土着化する西洋音楽 (阪大リーブル037)

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鼓笛隊の導入が、「同調圧力」とは違う仕方で集団を根本から再編成してしまう様子を捉えようとしたのが、この本の面白いところだと思う。

そして70年代の京都のヤンキーの話は、

http://www.tetsu37.com/hitorigoto/1978/index.html

エピソードのひとつひとつは、その後、島田紳助と仲間たちがKBSの深夜ラジオとかで語り継いでいた思い出話とカブル感じがあって、同世代で関西に生きとったら、まんざら知らん話ではないよな、と思ってしまうけれど、ヤンキーさんが、自堕落な現象として自ずからそこにあるのではなく、共同体とつながりながら半ば押し出されるように、半ばは意志的にそこから出るような形で、「なる」ものなのだ、ということを確認できる。

郊外幹線道路の周辺に、雑草が生えるみたいにある種の店舗が増殖することを「ファスト風土化」と呼ぶのは、その意味でも粗雑な上から目線の傲慢だよね。「風土」に同調するだけでは、ヤンキーにはなれなさそうだもの。

ビー・バップ・ハイスクール [DVD]

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同時代の京都の(おそらくチンピラに強く憧れる)お坊ちゃんであったと思われる岡田暁生は、学生時代、この映画に熱狂していたし、今から思えば、80年代後半の「トレンディ・ドラマ」とは、ヤンキー上がりがサラリーマンになってもかつての癖が抜けずに夜遊びばっかりやっているのを、おしゃれに演出していただけ、という面があるかもしれない。岩城滉一とダブル浅野の共演って、そういうことな気がしてきた。高度消費社会とか、ほんまかいな、という感じ。

80年代の三次元の実写テレビドラマはまだこんな感じで、「ポストモダン」だったのは、次数がひとつ少ない二次元の世界=紙や平面の上に表示された文字列(「ニューアカ」と呼ばれた書物群やサブカル系ジャーナリズム)と絵柄(「動物化」を準備したとされる一連のアニメやゲーム)だけだったのかもしれないね。