劇場文化の広がり

コンヴィチュニーはグラーツでは今も定期的に仕事ができているみたいだけれど、その前のライプチヒでは、あまり満足にやりたいことをやらせてもらえなかったように見える。

たぶん、大きな劇場で衆人環視の状態は、妥協しない人だから、難しいんじゃないだろうか。大きな劇場になればなるほど、色んな立場の人、様々な意見をもつ人が関わってくるから、おのれの信じる道一筋なタイプを守り切れなくなる。ありがちな話だけれど……。

グラーツは、都市としても劇場としても、規模としてはオーストリアではウィーンに次ぐ二番手のポジションになるようで、びわ湖ホールは東京の新国立劇場に次ぐ二番手だからグラーツのようなものであろう、ここなら大丈夫(かも)とコンヴィチュニーが見当をつけた可能性がある。

でも、彼の「野望」(と思われるもの)は、たぶん、さらにもう一回り小さい劇場でこっそり立ち上げたほうが、成功率が高かったんじゃないか、という気がする。

たとえば金沢とか広島とかに、オーケストラだけでなく劇場があれば、丁度良かったんじゃないかなあ、と妄想したりするのだけれど、実際には、彼を迎え入れることができそうな都市といっても、なかなか、思い当たらないですよねえ……。

彼に好きに使える劇場を与えたら、面白いことをやりそうだし、その都市のシンボルになり得そうな気はするのだけれど。

サッカーのように、全国各地にクラブチームが分散していて、それぞれが特色のある運営をしながら競ってる状態だったら、その線もあったんだろうけど、日本のオペラは、そこまでの多様性を許容する、というか、支えるだけの広がりは、(まだ?)ないか。

「機が熟していない」と言ってしまえばそれまでだけれど、何が熟していないかというと、歌手や演出家や劇場の「レヴェルが低い」「高さが足りない」というより、多方向へ拡散する「広がりに乏しい」んだと思う。

だから、好きにやったらええやん、とならずに、のぞきにきた人たちに、あーだこーだ、言われちゃうし、応援する方も、優等生的に「高得点」を取れそうな褒め方、アピールの仕方を考えてしまうことになる。

東京イタリア劇場、とか、名古屋バイロイト、とか、そんなんを作って、そっち方面が好きな人はそこへ足止めしといたら、どこかにいつの間にか、「コンヴィチュニー共和国」ができあがってる、というのも、ありだったかもしれないが。

(学校鑑賞公演で「森は生きている」をやることになったのだが、そこには劇場芸術監督ペーター・コンヴィチュニーによるものすごい「読み替え」が施されている、とか、そんな、過激な自治体があったら、ちょっと住んでみたいかも。)