日本語の音楽分析入門書がない

楽譜でわかる クラシック音楽の歴史: 古典派・ロマン派・20世紀の音楽

楽譜でわかる クラシック音楽の歴史: 古典派・ロマン派・20世紀の音楽

広瀬大介さんの新しい音楽史の本は、(前)古典派から新音楽までと時代が区切ってある分、譜例中心で、選曲がばっちり決まっていて、画集のように「音楽を見る」ことができるいい本だなあと思いました。

で、本屋でこの本を手に取ったのは、フーガってどういう作りになっていて、ソナタ形式をどういう風に説明したらいいか、人に薦められる分析の入門書を探していたからなのですが……、

日本語で作品分析の基礎を独習できるまともな本(シェンカーとかなんとか、ああいう、宗教書みたいのでないやつ)は、翻訳であれ書き下ろしであり、現時点で皆無と言っていい状態みたいですね。

これは吃驚しました。

和声や対位法はいちおうあるけど、それだけ読んでも、ソナタやロンドやフーガをそのような「形式」として把握するときに、そういった音楽理論のシステムをどう利用して、相互にどう組み合わせながら使えばいいのか、すぐにはわからないじゃないですか。

そのあたりを無知蒙昧な状態で放置したままで、ベートーヴェンのピアノソナタ全曲演奏会とか、モーツァルトの創作の歩みを何年がかりで追体験しようとかいっても、字幕なしで外国語のオペラを観るようなものですよねえ。

「考える」必要はないんです。「感じれば」いいんです、とかいったって、あなた、音楽を作って演奏しているほうは、ただやみくもに「感じる」だけでエマールがバッハの平均律第一巻全曲をああいう風にまとめあげることができるはずはないのであって……。

これはちょっとマズいのではないか。

ラテン語を読み書きできる者だけが聖職者として神に仕えて、一般人は金払って免罪符買え、と言ってるのと同じ状態なんとちゃうやろか。

英語やドイツ語やフランス語を読めない人間は、音楽の「かたち」や「意味」など知らなくてもいい、というのは、ある種、音楽におけるスーパーグローバルな格差社会を先取りしていると言えないことはないかもしれないが……。

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わたしらが学生の頃は、なんとなく立派な肩書きのある「先生」が、頓珍漢で我流の分析まがいのものを「研究」と称して本にして売る、みたいな野蛮な行為が横行していて、それで一般の音楽ファンが「分析」なるものを嫌になったんだろうと思うんですが、今はもう、音楽作品の「かたち」と「意味」を理不尽でなく、スマートに読み解くことができる人たちが主流になっていることは、最近の音楽書・解説書を見ればあきらかじゃないですか。

そろそろ、なぜ、そのように読むことができるのか、手の内を明かす段階に来ているのではないかしら。

早い段階で親切に教えてあげる場を作らないから、大久保賢[四日間拘置所に勾留されるってどういうことか想像力がまったく働いてないやろ、今がその人に対して作曲の話を悠長にするときかどうかくらいわからんのかボケ!]みたいに我流を拗らせながら勘とバクチでどうにか凌がないとしょうがない七転八倒の人生を送る人が出てきたりするわけで、あまり健全な状態ではないような気がします。

わたしは情報に疎いからClemens Kühnあたりを誰かがさっさと訳しとけばよかったんじゃないか、という話を繰り返すことしかできませんが、ああいうのが今でも通用するなら訳せばいいし、もっといいのがあるんだったらそっちを翻訳ということで。

声楽曲の作曲原理 言語と音楽の関係をさぐる

声楽曲の作曲原理 言語と音楽の関係をさぐる

でも、この本とか翻訳が凶悪だし、つい最近まで、教科書を選定したり、そのための翻訳プロジェクトを組むことができる地位にある人の語学ry[……以下自粛……]。

そろそろ世代交代して、そのような病から脱却できる頃合いでしょうか。

それにしても、ソナタの冒頭楽章はどこがどうなってるのか、ちゃんと言葉で説明する文章(活字)が存在しないのって、ちょっと異常な状態だと思います。

もう日本語文化圏にそんな余裕はないのであって、あたかもかつて敢然と国際連盟を脱退したかの如く、21世紀は西洋音楽のネットワークを離脱して、「サブカルチャーとしてのクラシック音楽」が商売として存続するだけでいい、あとはやりたい奴が外国語でやってくれ、というのであれば、話は別かもしれないけれど……。