ご来迎:クプファーの知覚演出

大栗裕に見せたかったラスト。ある意味「神仏習合」ですよね。猛烈なヤッチャッタ感。

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帰宅したのでもうすこし書きます。

みなさん、ひょっとすると、いわゆる「ネタバレ」を怖れて感想を曖昧にぼかしていらっしゃるのかと思うのですが、プログラム買ったら、クプファー自身が「共苦(Mitleid)をキーワードにしてキリスト教と仏教の接点を探ることが今回の演出意図だ」という主旨のことをはっきり書いているのだから、むしろ、先に見た人が見所をちゃんと指摘して、議論を積み重ねて深めていくほうがいいと思う。

一度見て、「ビックリポイント」がわかっちゃったらオシマイな使い捨て、というようにヤワな舞台ではないと思うし、「ビックリポイント」があらかじめわかってる舞台なんて見たくない、という、商業芝居に慣れきったヤワな客は、来るな、と言い切るくらいでいいんじゃないか(笑)。

(口ではそんなこと言っていても、そういう人は、議論が盛り上がれば、「話題に乗り遅れたくないからやっぱり観ておこう」とか、なるもんですよ。まあ、実際はそう上手く物事が運ぶとは限らないかもしれないけれど、世間をいい意味で騒がせるイベント興行(ハイブロウ狙いの)は、そのようにあってしかるべきでしょう?)

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本題に入ります。

ワーグナーは深読みをやりはじめるとキリがないようなハイコンテクストな作品なわけですよね。

台本だけでも読むと色々思うし、

(たとえば、行きの新幹線の中で台本読んでいて、この宗教劇は全員が duzen なんだなあ、と改めて思った。神とはすなわち Du Allerbarmer だし(アンフォルタスが Liebesmahl (←聖餐と訳すると随分ニュアンスが変わって来るし、原文ではこの語を使うときと、単に務め Amt と言うときとがあるのだが……)で Erbarmen! と叫ぶ印象的なシーンに出てくる)、グルネマンツは、いかがわしい異教徒クンドリにも、初対面の謎の愚者(聴衆の前で彼がパルジファルと呼ばれるのは第2幕になってからであり、騎士団の人々に彼が名乗りをあげるシーンは最後までない)にも、教団の騎士たちにも、すべて du で語りかける。まあ、それがキリスト教文化圏ではぐくまれたドイツ語の慣習なのでしょうけれど、日本語文化圏とは違う感覚なので、三宅先生ですら、訳詞・字幕は敬語のあり/なしが混ざってしまう。でも、Mitleid は、あらゆる存在に du と語りかけるような、いわば常に「ゼロ距離射撃」をする/されるような生き方・世界観のなかにしか立ち現れないのではないかと思いました。)

そしてその多義的なテクストは、ワーグナーが当然ながら付曲すること前提で書いたものであって、音楽が加わると多義性が文字通り立体的になる。

(前奏曲のあと、舞台でグルネマンスと騎士たちが語る背後から(高みから?)聖歌が響いて、しばらくしてクンドリが駆け込んでくるのがオーケストラだけで描写される、とか、そういう比較的わかりやすい「立体SE」で、この作品は音楽が立体的に構成されているんだよ、ってことに徐々に聴衆を慣れさせるわけですよね。)

で、クプファーは、この多義性を読み解いて整理しちゃうんじゃなくて、あのギザギザの「光の道」は、それこそ実に様々な姿に変容する多義的な舞台装置ですよね。台本の多義性+音楽の多義性に、視覚的な多義性が加わる面白さだと思いました。

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基本的には、この「光の道」がギザギザ・トゲトゲの鋭角で目に刺さるような形になっていて、光量は全照だと周囲の暗さとの対比で攻撃的に眩しくて、背景の雲や風景を映し出すスクリーンも鋭角三角形。さらにそこに切っ先鋭いメッサー(とスタッフは呼んでいたらしい)がギュワーンと切り込んできますから、この騎士団は、ほんとに刺す/刺される人たちなんだなあ、という感じがする。(先端恐怖症の人は舞台から目をそらしちゃうかも。)

でも、これこそ「ネタバレ」ですが、2幕の最後の槍(つまりは「ロンギヌスの槍」だ)が飛ぶところで、「光の道」は、この作品ではじめて、くねくねした曲線になるんですよね。しかも舞台全体が銀河宇宙に見えるように作ってある。

宇宙空間をロンギヌスの槍が浮遊するって、エヴァじゃないすか。(もちろんエヴァのほうがキリスト教のあれこれをアイデアとして借りているわけですが、この舞台を観ているオタクの率直な感想としては、天下のクプファーがガイナックスをパクッたと錯覚しそうになって興奮した。)

「……使徒クリングゾルさんわぁ〜、さしたる見せ場もなくぅ〜破れてしまいますぅ(ゆっくり)」(……悪のりしました。すみません。意味のわからない人はスルーしてください)

そうして最後は、高いところに坊さんが3人いて、地上の人々がそれを仰ぎ見ている構図が、いわゆる「来迎図」みたいになる。

(私以外に誰もそんなものを連想しないとわかっていますが、大栗裕は宇治平等院の九品来迎図に触発された「飛翔」という管弦楽曲を朝比奈隆音楽生活40年記念曲として書いておりまして(エアフルトとハンブルクでもやってます)、それで、このラストシーンは大栗裕に見せたいなあ、喜ぶだろうなあ、とわけのわからないことを妄想して、それで私はここで陥落、滂沱の涙でございました……。)

まあこれは、ロールシャッハテストで被験者が見たいものを見てしまう、とか、何かにすがりたい思いの人がイタコさんの口寄せで死んだ祖母の霊の語りに泣き崩れる、というのに似た現象だと思うのですが、そういう風な多義性発生装置として、実にうまくいっている舞台だと思いました。

物語とか意志と表象とかというより、知覚の操作で心のなかを覗かれ、いじられているような感覚。おそらくワーグナーの「楽劇」は、そういう領域へ踏み込んだことが画期的だった舞台芸術なのだろうと思うので、クプファーの手法がワーグナー演出で特別な存在とみられているのは偶然ではないのでしょう。この人は、読み替えとも深読みとも違うところを掘るんだなあ、と思いました。

(知覚の裏を攻略する技法は、結構賞味期限が短いようにも思われ、彼が同じ作品の再演出でも前回と時間が空くとガラリと変えちゃうのは、自分の手法の賞味期限がよくわかっているからなのかもしれない。映像が出ている昔のバイロイトだったかベルリンだったかの核シェルターみたいなのと比べると、似たような装置も部分的には出てきますが、随分変わっていますよね。あの映像の、花の乙女たちがテレビ受像器なのは、今みると中途半端に古い「中古品」感が漂ってしまうのだけれど、今回の演出は、感覚が古いとは思わせない現役感満点で、たいしたものだなあと思いました。)

あと2回くらいあるらしいので、何が見えるか聞こえるか、チャンスがあるなら、行かなきゃ損。

[ただし、クプファーは「光の道」のアイデアを最初に出したのはフィンランド国立劇場のプロダクションだと書いていて、フィンランド国立といえば先の「死の都」じゃないですか。これは偶然なのか? 「光の道」は今回とフィンランド版とどれくらい同じなのか、今回のプロダクションは、本当の本当に「新演出」なのか、新しいのは、坊さんがホントに出てくること以外にどこがそうなのか、フィンランドの協力とかなかったのか……。ひたすら「新演出」と主催者側が連呼するだけに、ちょっと気になるところではありました。]