哲学

「誰に頼まれたわけではないけれどギリシャ古典を読む(翻訳だけど)」を昨年来続けておりますが、ソフィストが登場して、ソクラテス(produced by プラトン)が出てくると、とたんに言葉の様相が変わる気がする。

プラトンの描くソクラテスは、友好的にコミュニケーションの回路を開いているように見せながら、いつも他人に決定的なことを言わせようとする人で、なんだか嫌な感じだ。

ソクラテスが死んだあと、「ソクラテス文学」と言うべき同種の対話篇がたくさん書かれたらしいが、そのなかからプラトンの描く「うざいソクラテス」像だけが生き残った(他のほとんどの「ソクラテス文学」は伝承されず失われた)というのは、憎まれっ子世にはばかる、とか、最後はプロデューサーの力が物を言う、とか、そういう感じで、イデアの輝きの反対側の闇が深いような気がしてならない。

アテネはこのあと衰退するんですよね。プラトンに学んだアリストテレスも他所へ行ってしまうし。

「哲学の誕生」なるものは、そう無邪気に祝福していいのか?

メノン―徳(アレテー)について (光文社古典新訳文庫)

メノン―徳(アレテー)について (光文社古典新訳文庫)

本文とほぼ同量の解説が添えられていて、光文社の古典新訳シリーズは、なんだかすごいことになっているなあと思う。

うねうねと続く対話から研究者が哲学的な主題を取り出す手つきは、古い楽譜や音楽書を丁寧に読み解くのに似ていて、ソクラテス/プラトンへの好き嫌いとは別に、何の分野でもちゃんとした人はちゃんとしているんだなあ、と思いましたが。