「疎外」の件

左翼で行こう、左翼的心情に訴えるスローガンを打ちだそうとするときの必殺技のひとつが「疎外」概念であるとされてきたように思うのだが、日本語の「疎外」はややこしいので、おさらいしておきたい。

別に自分が左翼で行くぞ、ということではなく、あさっての方向へ弾を撃つ人を見るのはしのびないということに過ぎない。余計なおせっかいだろうとは思うが……。

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ウィキペディアでも、Entfremdung や alianation は「客体として存在するようになったものを操作する力を主体が失っている状態」を指す概念だと説明してあって、漢語の「疎外」が連想させる「疎んじる」とはちょっと意味がずれる。

理にかなった雇用契約を交わしたはずなのに、どうしてこんなに仕事が辛いのだろう、と思っている労働者さんに、「あなたは搾取されているんですよ」と説明する。その説明モデルとして Entfremdung/alianation 概念が効いてくるわけですね。

あなたの「主体的」な契約であっても、ひとたびそれが行使されてしまうと、もはやあなたのコントロールが効かない結果を招くのです。資本主義はそういう邪悪なシステムなのです。同士よ、ともに学び、ともに闘おうではないか、と。

(ただし、対象を対象として認定し、他者を他者と認めれば、不可避的に「私」の支配が及ばない存在になるに決まっているとも言えるわけで、ヘーゲル哲学などでは、対象や他者を認めることが Entfremdung/alianation である、というような含みになっているように思う。拒絶したり否認したりできる邪悪な何かというより、好むと好まざるとに関わらず、そのように世界は分節されているなあ、と言っているに過ぎないはず。……あまり正確な説明ではないかもしれませんが……。)

いずれにしても、Entfremdung/alianation は、疎んじられて、ほったらかしにされて、孤立している状態ということではなさそうです。自分ならざる存在のありようや活動は、自分自身のコントロールが及ばないにもかかわらず、自分自身と無関係ではなかったり、自分自身に影響を及ぼし、働きかけてくるから放置できぬ、というような状態であるように思われます。

Entfremdung/alianation は、離縁・絶縁ではないし、だからこそ、ほっておけない何かとして、考察の対象になる。

(ヘーゲルであれば、弁証法が発動するのだろうし、マルクスであれば、革命の契機なのでありましょう。)

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さて、ところが、

「諸君、覚醒したまえ」風の言葉遣いで綴られているにもかかわらず、そこで指摘されるのが、「あなたの知らない間に、世の中はこんな風に動いていますよ」という調子で読者の「疎外感」(え、オレってこのままだと世の中から取り残されちゃうの?という焦燥感)を煽る感じの内容だったりすることが結構あったりしますよね。

あれが、よく、わからない。

それは、Entfremdung/alianation の覚醒を促すというよりも、乗り遅れちゃダメよ、と動員する宣伝・広告だと思うんですよね。(「村八分」を怖れる庶民感情につけこみ、当世風に言えば「同調圧力」を行使しながら……。)

それはヒトを覚醒させるというより、何かに盲従させようとしているわけで、むしろ、ぐるっと一周して、敵に塩を送っているのではないか。

まあ、いいんですけどね。

そんな風ではない最新型の左翼さんは、よかれと思って敵に塩を送ってしまう人々の存在を「敵」は折り込み済みである、ということを忘れないために、「環境管理型権力」という概念を既に装備していらっしゃるようですし……。