歴史と修辞学の思考速度

[ http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20150310/p4 のつづき]

普遍の世界に生きる人の目に「歴史」がどのように見えているのか/見えていたのか、ということを想像してみた。

古代ギリシャの頃から、今日では「歴史書」とされている文書が様々に書かれているし、ラテン語の古典として読み継がれた文書も色々あったはずなわけだが、artes liberales 的な知の世界では、たぶんそういうのは修辞学の古典、つまりは、作文のお手本だった、ということなのかもしれないなあ、と思い至る。

ものごとをいかに物語るか、その術を学ぶのは知に含まれていたわけですね。韻文で綴る叙事詩や抒情詩というのもあるし、散文で物語る文というのもある。

で、今日わたしたちが「歴史」と言うときには、物語のなかでも事実ベースで構成されているジャンルを特別扱いしているわけだが(「歴史」と呼ばれる物語は語り手や登場人物が実在であり、ということは、潜在的に読者もまた登場人物の末端に連なり得る、ドラえもんやエヴァンゲリオンではそうはいかない)、もし「歴史」が様々な文の一種として読まれ、学ばれていたのだとしたら、そこで物語られていることが事実であるか否か、ということが、今日の我々の了解ほどには重視されていなかったのかもしれない。(これは観念論哲学で言う即自と対自の区別を持ち出したくなる事態ですね。物語全般と無媒介に戯れる即自的精神と、物語が歴史から疎外された対自的精神、みたいな。)

もしくは、言語分析・概念分析風に言えば、何をもって事実と見なすか、の了解が今日とは違っていたということか。

そして創作論風に言えば、事実とは何か、ということについて、現在につながる了解を受け入れてしまうと、事実ベースの物語を綴ろうとするときに相当面倒な各種の「縛り」が発生しますし、そのような「縛り」を受け入れたり、巧みにすり抜けたりする術策を含む新種の物語として人気を博したのが小説というジャンルなわけだから、歴史を物語の一種、作文の型のひとつ、みたいな場所に置いてしまうと、「昨日生まれたばかり」であり続けることによって隆盛を誇ってきたのかもしれない散文なるものの生産性が落ちる、もしくは、せっかく丁寧に耕されてきた散文世界が荒れて痩せ細ってしまうかもしれない。

それでもやはり、来たるべき世界は artes liberales に戻ったほうがよいのだろうか?

私小説など面倒くさいからもうどうでもよくて、作り事の通俗小説さえあればいいのか、という話とちょっと似てますね。

(前に、「普遍の世界を生きる人」が、歴史の書き物など私にとっては思考を伴わない作業だ、という意味の発言をしたことがあって、野蛮なことを言う奴だとギョっとしたのだけれど、上のように考えれば、なるほど「普遍の人」にとってはそうなのかもしれませんね。

事実関係の究明というのを背負うと思考の速度は格段に落ちる。その重荷を捨てると、マッハのスピードを叩き出すことができる。そういう一種のトレードオフがある、ということか。

そして通常、若いときはマッハのスピードのほうが人気がある(←ここには別に「嫉妬」は入っていないので、慌て者が勘違いして、それ来た、とばかりに思考を暴走させてはだめヨ(笑))。)

井上章一 現代の建築家

井上章一 現代の建築家

ヨーロッパの街並みのなかに置かれると「近代建築」はペラペラで浮いた感じに見えるが、日本の街並みは「近代建築」ばっかりだから、印象が変わる、というようなことを井上章一が書いているが、これは、歴史主義の19世紀をもたない日本のモダニズム、という他我の歴史的条件の違いだけでなく、「速度」をめぐる何かを言い当てているような気がする。