師弟連続体について

吉田寛先生の「“音楽の国ドイツ”神話の系譜学」シリーズに半月取り組んだわけだが、読んでいただければわかるように他人事ではないという気持ちがあって、それは、このシリーズを読むことを通じて、西洋音楽研究のあれこれを整理できるのではないか、ということであったように思う。

結果的に、私自身が承知している範囲での過去およそ30年、1980年代以後の音楽学とは何だったのか、私なりに考え直す機会になった。

具体的な論点としては、

  • (1) 無責任な「近代の神話」批判とつきあうのは、程々になさいませ
  • (2) どうして劇場に代表される音楽と音楽家の思考と行動に立ち入ろうとしないのでしょうか
  • (3) 苦し紛れに現代日本の論壇用語を投入するのは感心しません

ということを書いた。

こういう風にまとめると、倫理・道徳的でおせっかいな説教に見えてしまうが、そうならないように、議論の組み立てには知恵を絞ったつもりである。その作業が私にとってはいい勉強になった。

そして作業中は当面の話をどうまとめるか、必死でそれほど余裕はなかったが、今こうして振り返ると、上記(1)〜(3)は、いずれも、吉田先生ご自身への批判というより、氏の著作に映り込んでいるその師匠、渡辺裕に特徴的な手法と発想への批判になっているような気がする。

正直いって、ヘーゲルやアドルノを私は吉田先生のように明晰に解読・要約できない。読みながら、なるほどそういうことであったかと感心することが色々あるばかりで、思想史本体については、最初から実力が違いすぎて、今すぐに私に言えることはない。

(だからどうでもいい、ということではなく、そこがこの本の大事なところなのだと思うので、これから時間をかけて少しずつ考えます。)

でも、だからこそ、本編に入る手前の段階の話として、「なんでここに渡辺裕が出てくるねん、吉田寛の本なんやから、あの人のことは、もうええやん」と不満が募ったのである。

(1) は「聴衆の誕生」以来の渡辺裕のホームポジションのような態度。(後世は、渡辺裕を日本におけるニューミュージコロジーの代表格と総括することになるんじゃないか。)

(2) に関連して、「私は批評はやりません」が渡辺裕のポリシーである。(だから彼は、ともすれば面倒を背負い込むことになりかねない実演家とのつきあいなしに生きていられるかわりに、音楽史のなかで Kritik が関わる領域、たとえばこの概念が思想史の鍵を握った18世紀から19世紀の転換期にうまくつっこめない。)

そして(3)、「批評はしないが論壇的」は、渡辺裕の啓蒙書の基本と見て間違いないだろう。その成果が紫綬褒章だ。

このプロジェクトは東大の学位論文を10年後にまとめ直したものであり、主査は渡辺裕だ。学位論文の内容や主張にどの程度主査の姿が映り込んでしまうものなのか、私には、一般論として何かを言うだけの知識も経験もない。(博士号とってないし。)

「師匠におもねり、空気を読んじゃってるんじゃないか」とか、「いかにも、グルと呼ばれる人物が世間を騒がせた1990年代の若者らしい態度である」とか、そういうことを訳知り顔で言うのはおそらくゲスの勘ぐりで、師匠に基本のところで同意して、師匠と共闘する気持ちがなければ、その指導を仰いで学位論文をまとめようとは思わないものなのだろう。師弟関係とはこういうものだと言われたら、私には何も言えない。

だったらこうして、師弟連続体をまとめて論じるしかない。

でも、自ら責任を取り得ないことをみだりに引き受けない、というのは、おそらく近代市民の基本で、大学院改革というのは、大勢として、大学の近代化を目指していたはず。

師匠の姿勢に弟子として同意している、という部分についても、それならそれで、どのような理由で同意しているのか、他人行儀に語り直したうえで論に組み込むのが、近代市民の人間関係というものなのではないかと、少なくとも私は思う。論文に duzen が混じっていると、当事者間はそれでよくても、第三者が読んで戸惑う。

創られた「日本の心」神話 「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史 (光文社新書)

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踊る昭和歌謡―リズムからみる大衆音楽 (NHK出版新書 454)

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輪島先生の本も、学位論文にもとづく一冊目は「師弟連続体」っぽいところがあって、二冊目は、すっきりそういう色が抜けている。

吉田先生が、晴れて出される予定であるらしい非連続体的な単著に期待したい。