「音楽の国」と移民

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「音楽の国」としてのドイツはユダヤ人にもスラブ人にも開かれていたが、「演劇の国」はそうではなかったのではないか

という仮説を導入すると、吉田寛先生の「音楽の国」シリーズと、北米のアジア人音楽家が希望を託す「音楽の国」がつながるかもしれないわけですね。

「アジア人」はいかにしてクラシック音楽家になったのか?──人種・ジェンダー・文化資本

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この方程式が解けるかどうか、すぐには答えが出ないような気もするし、でも案外、コンピュータは気付かないけれど人間の棋士だったら瞬時にわかる10手先の「角取り」なのではないか、という予感もある。

「国民オペラ」とされる魔弾の射手の隠者役に「この劇場でこの役を歌えるのは彼だったから」と韓国人歌手を起用したり、「私はヤナーチェクを信じる」と発言したりするオペラ演出家ペーター・コンヴィチュニーは、「演劇の国」の住人なのか、「音楽の国」の住人なのか、という問いに変換して考えればどうなるだろう、と、さしあたり思いついた。

(コンヴィチュニーは、結局のところ大指揮者の息子で「音楽の国」の住人であり、「演劇の国」においては傍流もしくは異端に過ぎない、そこが彼の限界であった、と総括してしまっていいのかどうか。これはたぶん、アクチュアルな争点になりそうですよね。だってこのように総括することは、それによって「音楽の国」理論の整合性を維持できるけれど、同時に、「ドイツへの移民が音楽以外の領域での活躍を制約されたとしても、それはそういうものだから甘受せよ」と発言しているに等しい効果をもつ可能性があるのだから……。)

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同化政策によってドイツを代表する知識人・芸術家になったユダヤ人たちを論じるときに、例えばマーラーの場合が典型的だけれど、ユダヤ人がドイツ音楽を内側から食い破るモーメントを読み取るのがポストコロニアルな議論だったわけですよね。

「聴衆の誕生」の著者としてではなく、「文化史のなかのマーラー」の著者としての、いわば「もうひとりの渡辺裕」をどう見るか、ということでもあるし、この議論は、北米ポピュラー音楽に「偽装」という視点を導入する大和田さんのアメリカ音楽史と結びつくかもしれない。

アメリカ音楽史 ミンストレル・ショウ、ブルースからヒップホップまで (講談社選書メチエ)

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そして伊東信宏先生は、「ナショナリズム」は土地所有者(農民)の観念であって、貴族は大土地所有者ではあったけれど、ヨーロッパ中が姻戚関係だからコスモポリタンの傾向が強く、土地(農地)の所有が許されずに差別されたユダヤ人とロマは国境を易々と越えて移動していたのではないか、というように、天井と床が抜けた中・東欧の見取り図(回路図)をスケッチする。

中東欧音楽の回路―ロマ・クレズマー・20世紀の前衛

中東欧音楽の回路―ロマ・クレズマー・20世紀の前衛

こういう風に「国境」の天井と底が抜けてしまうのは、聴覚という「瞳を閉ざすことのできない知覚」に依拠する文化だからである、という風に言いうるのかどうか。

むしろこれは、ナショナリズムを育んだ中産階級の「読書公共圏」が、中世スコラ哲学以来の修辞学・レトリックと同じ構造を備えていると確認しているに過ぎないのではないか。

参考:中間者の贅沢 http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20150404/p1

繰り返すが、結論をすぐに出すようなことではないと思う。

でも、「近代の神話」をやみくもに批判するのではなく歴史として記述する、という姿勢が、移民・人種問題における「同化政策」をやみくもに批判するのではなく歴史として記述する姿勢と親和的であるらしいことは認識しました。

で、もし仮に「音楽の国」がかように理想的な楽園状態であったのだとしても、私個人としては、「同化政策」は問題の解決=歴史のエンド、というより、取り組みの出発点=とりあえずそこから歴史をはじめるしかない地点、と捉えて、その先を、考えるというより生きる人間でありたいと思う。聴覚だけが自由である状態がヒトとして幸福かどうか、感性を倫理の上位に置く立場にそう簡単には同意できない。