メンデルスゾーンにとって「ヴェネツィアのゴンドラ」というお題は特別なものだったことがわかっているわけだが、
(だって無言歌のなかでこれだけは作曲者自身がつけた標題だからね。で、既に無言歌を研究した博士論文というのが存在する。音楽史の話をすると、ときどき、妙に自信たっぷりに何かを断言せざるを得ないことがあるが、それは別に巫女のように作者の声が聞こえたり、霊が憑依しているわけではなく、根気があれば誰でもたどりつくことのできるところに公開されている先行研究を読んで知っているからだ。)
録音であれ実演であれ、音をひたすら聞く「聴取の公共性」(仮称、聴覚文化論ってこれだよね)には、このあたりがうまくアピールしない。
たぶん一番の理由は、メンデルスゾーンが1820年代の「ポスト・ベートーヴェン世代」を引き継いで、減七和音を曲中で最も衝撃的で表現力のある和音として使っているからだと思う。
1848年以前の耳にはこれでよかったが、ワーグナーと新ドイツ派の登場で、減七のみならず、四音和音が出てくるだけでは誰も驚かなくなった。20世紀のサウンド重視の音楽になればなおさらだ。
だから、ブラームスなどは、(当人は減七でも十分に刺激的だと思っていた可能性が高いけれど)秘かに同時代のライヴァルの新作も研究して、楽器法とかを工夫して、ハーモニーのインフレを乗り切ろうとしたのだと思う。
(その結果、微妙にダサくなっちゃうことがあるわけだが。)
……ということで、1848年あたりを境にしてハーモニーのインフレが起きていることを知らないで、ただ、音だけ聞いて、これは好き、あれは嫌い、と言っているだけだと、クラシック音楽のど真ん中であるところの19世紀の話すら満足にはできなかったりする。
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でもこれって、自然科学が、経験主義の実証だ、といいながらも、研究史の文脈やデータ解釈の理論を知らないと、実験や観察の結果(の意義)を評価できないのと同じだよね。
(楽譜を読むと作者の声が憑依して、ヒステリックに妄言を叫んでしまう行為と、まともな音楽論は、出力された文言だけからでも見分けがつく、などと「読書の目利き」を気取るのも、危うい賭けなんじゃないかと思うし、そのあたりに「読書公共圏」や「聴取公共圏」がポピュリズムに堕落する芽がありそうに思う。)
地味な研究者が手仕事的に伝承している「わざ」は、解釈学的循環とか何とか、立派な哲学的議論を演説する大学者より、よっぽと役に立つ場合がある。(「メンデルスゾーンの減七」も、あっちこっちの本に出てくるちょっとした言及を寄せ集めてようやく見えてくる話だし。)