「本来性」批判の現在形

アドルノの『本来性という隠語』は未読で、どうやらハイデガー批判らしいのだが、哲学的な議論はさておき、アーリア人の優位を公式見解として掲げたナチズムはいかにも「本来の○○とは?」という議論を仕掛けそうな人たちだろうから、ナチズムをラディカルに(自己)批判しようとする戦後の知識人が、「本来の○○とは?」という話法に取扱注意のフラッグを立てたのは無理もないと思う。

私は、学生時代に西ドイツの文献で音楽学を勉強したので、「本来性」問題については、特殊 speziell と 一般 allgemein という対概念で事態を整理し直す論法に慣れている。

「特殊なもの=他と置き換えることのできない特性」を切り出すことがその現象の正当性の保証になる、という論法は、一定の歴史的・文化的な条件下でしか成り立たない。ロマン主義美学と総称されることが多い19世紀(以後)の芸術論で言う独自性・オリジナリティには、多分にそのような「特殊性」を称揚する含みがあり、ハンスリックの「音楽とは鳴り響く形式の芸術である」という主張もまた、モダニズムを先取りするようではあるけれど、実は、音楽の「特殊性」を切り出そうとしている点で同じパラダイムに乗っている。というような、ダールハウスが好む議論だ。(そしてこの議論は、これに先立つ18世紀啓蒙主義が「一般性」を確保することで正当性される別のパラダイムに依拠していたんじゃないか、という認識とセットになっている。)

今思えば、戦後西ドイツは、アインシュタインの「特殊」/「一般」相対性理論やハイゼンベルクの不確定性理論の先に開かれた物理学を前面に押し出す「科学立国」のようなところがあったわけだから、この論法もまた「戦後西ドイツ」という歴史の産物だったのかもしれない。

(恩師谷村晃は、フンボルトでミュンヘンに留学したときにハイゼンベルクの講演を聞いたと言って、そのレジュメ(講演原稿)を見せてくれたことがある。)

90年代以後に出てきた人たちは、たぶんもう「物理学の国ドイツ」のことなどよく知らないだろうし、ナチズムへの反省というような文脈も希薄な感じに、「本質主義批判」ということを言うようになった。

現象に「本質 essence」を想定する思考を批判するのは、機能主義の含みがある文化相対主義やフランス系構造主義とも相性が良くて、「相対的に自律」した上部構造の吟味を標榜するニューレフト現代文化研究の同意を取り付けることもできそうなので、「世界の盟主アメリカの良心」という風に受け止められたのだろうと思う。

何の話をしているかというと、「本来の大学とはかくあるべし」という話法を speziell や essence という隠語を使わずに言い換えることはできないものか、と思ったのである。

(なおここでは、制度の目的に「究極の」という形容詞を付ける論法も、「本来の○○とは?」話法のヴァリアントであろうという前提で話を進める。)

処理は比較的簡単で、

端的に言えば、専門学校やスクールと大学の違いは、「応用力」を獲得できるかどうか、にあると思っています。それは先ほど説明したカリキュラムの内容からもはっきり分かることだと思いますが、専門学校と違い、大学教育の究極の目的は、卒業したらすぐ現場で使える技術を教えることだけではありません。その現場がなぜ今こういうカタチをしているのかを学び、そして10年後、20年後どうなるのか、どうなるべきなのかを想像できる感性を養うことが、もしかしたらそれ以上に重要だと思っています。

そもそも、「応用力」が専門学校やスクールに不要である、という断定に少なくとも私は同意できないし、これは、「本来性という隠語」とセットで使われがちな「不平等な対概念」話法(AとBを中立的に対比しているように見せかけて、実は、一方を貶めて他方を賞賛するプロパガンダを狙うレトリック)なので棄却したい。

その上で、それが「究極」として特権的に優先されるかどうかはともかく、「現場がなぜ今こういうカタチをしているのかを学び、そして10年後、20年後どうなるのか、どうなるべきなのかを想像できる感性を養うこと」を目的とする制度を構築するのであれば何が必要で、どこでそれをやるのか、これまでの制度との連続性を重視するのであれば「大学」がその有力候補ではあるだろうけれど、アウトソーシングを含めて、あまり意固地にならずに、様々な可能性を考えたらいいんじゃないかと私は思う。

「本来の大学とは?」という問いを立てて、「専門学校vs大学」という不平等な対概念を設定すると、せっかくの「10年後、20年後どうなるのか、どうなるべきなのかを想像できる感性」に強力なバイアスがかかりそうだ。

「大学がいかにあるべきか?」という問いを、「その場ですぐに使える議論」に限定するのではなく、「10年後、20年後どうなるのか、どうなるべきなのかを想像」しながら解こうとするときには、最低限、「大学と似ているけれども大学ではない何か」のことを「敵」認定するのではない態度が望まれる。

例えば、「長期的な視野を育てる」のは難しいが、年功序列と終身雇用の頑強なしがらみを解きほぐすことを優先する経営判断で大学が短期目標の遂行を積み重ねる任期制の強化に舵を切り、そのまま10年、20年が過ぎてしまい(「終身」の前提で雇用した人員をすべて送り出すには、おそらくこの先それくらいの時間が必要だろう)、その一方で、安定走行のバランスを見いだした私塾や専門学校が10年後、20年後を見据えた教育カリキュラムを構築する、という対案を私はさっき「想像」できてしまったのですが、私の「感性」は、「10年後、20年後」には通用しない近視眼なのでしょうか?

今はとりあえず、年功序列と終身雇用という「しがらみ」の解決に大学が注力して、その間、「10年、20年」単位の課題に取り組む人たちは大学ではない場所に退避してもらう。ただし問題が解決したあとで、改めてそういう人たちとの関係を再編することになるかもしれないので大学外との協力関係はしっかり維持する。これって、それなりに「中長期的」な見通しだと思うのですが? というより、現状は、次第にそのように動きつつあると思うのですが?

(「本来の○○はかくあるべし」というのを最初に立てて、「ゆえに本学は××を行う」という風にミッションを演繹する論法は、それこそ「アウシュヴィッツ以後、不可能になった」ような気がする。単に「本学は○○というミッションを設定する」からスタートすればいいんじゃないか。

自分が関わっていない大学の先生の主張にケチをつけて貶めようというのではなくて、理念をそういう風に行使すると、方向転換がしんどくなって、どこかの段階で組織が疲弊するんじゃないかと思うんですよね。あそこがこういう旗を立てたんだったら、こっちはこういう旗を立てよう、みたいに掛け金をお互いに上げ続けるゲームがはじまって、そういう疲弊が周囲に波及、感染すると嫌だなあ、というのもある。

「やりたくてやってるわけじゃないのに、管理職を引き受けると、権力の亡者みたいに言われてやってられない」というボヤきが出るのは、こういう風に「理念」が古い形で使われ続けられがちであることとも関係があるんじゃないだろうか。

「運動」を拡大、拡張する20世紀のレトリックだと思うんですよ。ナチズムは史上最も成功した「国民運動」だった(ただし後世が負の価値付けをせざるを得ないような)というところがあり、そういうのはもう止めよう、という20世紀の教訓は、少なくとも「20世紀人」が生きている間くらいは継承しておいた方が安全ではないかと思う。「20世紀人」は、「運動」に関して、可燃性の高い生き物であるらしいので……。

[「短い20世紀」が1990年に終わったとして、その頃10代だった1970年代生まれが退職するのは2030年代。「10年後、20年後がどうなっているか」を想像するのに格好の思考実験になりそうです。今の大学生は、「20世紀人」がいない世界を生きることになるわけで、だからこそ、我々20世紀人は、「特殊20世紀的な経験」(←敢えて独文脈な語法)とその用法に自覚的になっていい頃合いじゃないか。]