ホルン奏者ジムロック

アルタリアがオーストリア領内最初の楽譜出版業者で、ハイドンが楽譜出版に積極的に乗り出すのはアルタリアがあればこそ、だったらしく、一方ボンにはニコラウス・ジムロックという人がいた。子孫がブラームスやドヴォルザークと関わることになるけれど、初代ジムロックが楽譜出版をはじめる前はホルン吹きだったことを、大崎滋生先生の論文で知る(「ナチュラルホルンの時代」『桐朋学園大学研究紀要』35, pp.1-23, 2009 ← CINIIで読める)。

大崎先生のホルン論文もすさまじく勉強になる内容でしたが、とりあえずジムロックの経歴は、ウィキペディアでもある程度わかりますね。

Er trat noch vor Erreichen seines 16. Lebensjahres als Hornist in eine französische Militärkapelle ein, wo er neun Jahre Dienst tat. Zurück im Rheinland bewarb er sich beim Kölner Kurfürsten Maximilian Friedrich um eine Anstellung in dessen Bonner Hofkapelle, in die er mit Verfügung vom 23. März 1775 am 1. April 1775 als „Waldhornist“ mit einem Jahresgehalt von 300 Gulden aufgenommen wurde.

Nikolaus Simrock – Wikipedia

フランス軍楽でホルンを学んで(ちなみに、ナチュラルホルンはバロック期にフランスから伝わった「新しい楽器/技術」なのであって、ロマン主義者が信じたようにドイツの伝統的な角笛とつながっていたわけではないことを大崎論文が指摘している、だからこそフランスで学んだのだと思われます)、そのあとジムロックは、ベートーヴェンのお爺さんが楽長だった頃のボンの宮廷楽団に雇われた。

Simrock gehörte zu den bekanntesten Aufklärern in der kurkölnischen Residenzstadt. Er war wie seine Kollegen Franz Anton Ries und Christian Gottlob Neefe Mitglied der Minervalkirche Stagira in Bonn, ein Verein des Illuminatenordens.

リース(息子がベートーヴェンの友人)やネーフェ(ベートーヴェンの師匠)とともに、ジムロックはイルミナティのメンバーだった、という記述もある。

ライン河畔ボンのフランスとの近さ、ベートーヴェンの上の世代が、フランスの動向に影響を受けて、いわば「啓蒙主義左派」とでも呼ぶべき思想風土を醸造していたらしいことがうかがえる。そうしてボンに大学が設置されて、ベートーヴェン世代はシラーに感化される、という流れになるようですね。

思想・大学・出版・結社・芸術(技術)といった、いかにも90年代以後の若手知識人が関心をもちそうなトピックの数々が、フランス革命前後のボンに関して、「グローカル」に調べられつつあるようです。

(こういう風に情報を揃えていくのが、大学という学問の場で世間の関心に対応していく、いわば「いいポストモダン」なんじゃないか、という気がします。)

[追記]

そしてベートーヴェン時代のホルンが、ドイツ土着の楽器ではなく「フレンチ・ホルン」と呼ばれるにふさわしい存在だったのだとしたら、ベートーヴェンがフランス行きを考えていたとされる時期に作曲した「エロイカ」交響曲に3本のホルンをフィーチャーしたことの意味も、改めて考え直したほうがいいのかもしれない。