思考の複数性

http://10plus1.jp/monthly/2016/04/issue-03.php

未来に向けた構想 design が複数あり得て、それを存在とみなせば世界の複数性を主張できる、というのは、とりあえずいいと思うのだけれど、

「行為としての思考の実在」は、design もしくは project だけに適用されるのだろうか。過去を振り返る思考(project と対になるのは retrospect でいいのでしょうか?)は単数なのか複数なのか。また、著者は design の複数性を阻む貧しさとして(現在の日本の官僚たちを暗黙に想定しながら)「現場主義」を批判するのだが、「現在」は単数に収斂するのだろうか?

design/project 論を「現場主義」批判に結びつけるとしたら、過去へ向かう思考と現在を生きつつある思考と未来へ向かう思考の三者がどのように区別されるのか、という一種の時間論風の分析が要りそうな気がするのですが……。ルネサンスや新プラトン主義にそういう話が入っているのか、私は無知でよくわからないのですが。

[追記]

あと、「世界のdesign=神の創造」というのを視野に入れると、過去・現在・未来という時間もまた design されたものだ、ということになりそうなので、design の語を "pro"ject という未来へ向けた思考と同一視していいのか、というのも気になりました。

以前、18、19世紀の作曲理論を概説書で勉強していたときに、Anlage(design/designo に相当するドイツ語として当時の作曲理論書で使われている、という説明だった)の語は、事前の設計図という意味合いにとどまらず、遂行されつつあるパフォーマンスや出来上がった作品から透けて見えるその構想、というような意味合いで使われる、とされていたように記憶します。バロックまでの多声書法(「8度のカノンを書く」等)やコンチェルトにおける主題のパラフレーズは、そのような意味でのdesign/Anlageを想定したほうがわかりやすい。

おそらく designo というのは、ルネサンスの制作・創造論からバロックの修辞学・弁論術を経て、啓蒙時代の芸術論に(も)流れ込んでいる世俗化された創造論・想像力論の話で、普遍(定義上、時間を越える)と俗世(過去・現在・未来がある)をどういう風にリンクさせようとする議論なのか、取り扱いはかなり面倒なはず。「現場主義」を一刀両断して大丈夫なのか、ちょっと心配になります。