個人研究と機関研究

バッハ、モーツァルト、シューベルトのようないわゆる「大作曲家」については、既に国家プロジェクト規模で数多くの研究者が何世代にもわたって動員されているので、今では、最高に能力の高い人材であっても、個人がそのすべてを把握して、卓越した業績を上げる、ということはできない段階に来ている。

でも、これは、canon批判の文脈で言われるように、特定の人物・作品・テーマがその分野の「権威」になっていて云々、ということではなく、欧米の人文科学が、関心のもたれやすい人物・作品・テーマでまず方法論を確立した、ということに過ぎないと思う。「古典研究」では、どういう環境を整備して、どれくらいの人材をどういう風に配置すれば、どういう業績をあげることができるか、その雛形が出来上がっていて、それが別の分野に挑戦するときの経験のベースになっているということだと思う。

大衆文化研究であれ、ゲーム研究であれ、おそらく今では、古典研究と同じように組織的に進んでいるはずだ。

ところが日本の人文科学には、今も個人研究の気風がある。

大学院重点化への学生・院生側の対策として、あからさまに膨大な研究の蓄積がある分野に猛烈なパワーを投入して個人で挑むことで自らの能力証明をして、あとは、個人として好きなことをやる、という風にキャリアをデザインした者があり、あるいは、国内でまだあまり手が着いていない分野であれば、最初から個人として好きに振る舞うことができるだろう、という風に狙いを定めた者もいる。

でも、やっぱりどちらも、中長期的には無理があったよね、というのが、そろそろ見えてきつつある頃合いなんだろうなあと思う。

古典研究を個人の腕試しの場に利用しようとする目論見や、未踏分野で好きに大暴れしてやろうという目論見でやっていると、やっぱり、研究者としての基礎力に、どこかしらの歪みが生じてしまいますよね。