ことばと音響

映画音楽からゲームオーディオへ―映像音響研究の地平

映画音楽からゲームオーディオへ―映像音響研究の地平

必要最小限の簡潔な説明で前提をまとめて、最適な例を選び取って、鮮やかな分析で素人にでも理解できる仮説を切り出す、というのは、科学論文の基本形のひとつだと思うし、人文科学が作品論の形で論考をまとめるのは、このフォーマットで腕を競うところがあると思う。

哲学の一部門としてドイツ流の大学制度のなかにポジションを得た美学から芸術諸学が分化して、美術史・音楽学・文芸学……という風に研究領域としても学会組織としても独立した学科が営まれるようになった昭和後期の人文科学のアート・カルチャー方面は、このフォーマットをお家芸として伝承・洗練させるところにアイデンティティがあったんじゃないかという気がします。

取り寄せたら予想の半分以下くらいの薄くて軽い本で(大学院重点化の果てに登場した過去数年の博士論文出版がタイトルも「○○論」と直球勝負でハードカバーの重く厚い書物であるのと好対照)、映画音楽はマックス・シュタイナーとディズニーアニメ、という風にすっきりした構成・論述になっていて、神林先生の指導を受けたというあとがきから判断して、やはりこのスタイルは、私が知っている芸術諸学のメチエというか躾というか、の先に出てきたと見ていいんだろうなあ、と思った。

学派、というのは、実体視して、その継承や維持を目指そうとするとおかしな風になるけれど、これは、京都帝大の美学に端を発して、でもなぜか京大美学には戻れなかった関西一円の先生たちが昭和後期にやっていた「関西の芸術諸学」の雰囲気を伝えているなあと、まず思った。

(自分もそういうところの末端にいたから、安心して読めてしまった、というドメスティックな感想に過ぎないが。)

前半の映画音楽の章を一気に読んで、後半のゲームオーディオの話は、自分が不案内なせいもあって、まだ読んでいないけれど、

19世紀のオペラが育てたライトモティーフの技法が亡命音楽家たちによって20世紀前半のハリウッド映画に移植されたわけですが、「テーマ音楽」という映画に特徴的な手法が、実はこれと対立するのではなく、むしろ、ライトモティーフ技法「から生成した」のではないか、ということ

それから、

ディズニーのアニメーションがその極北であるように、20世紀前半のハリウッド映画では、効果音が人工的に作曲・設計され、スコアリングされた音楽が映像と絡み合う、というように、音と音楽の意味・役割・用法の境目がはっきりせず、サウンドトラックは「音楽と効果音のシンフォニー」のような状態になっているということ

どちらも、なるほど、と膝を打ってしまう、急所を突く指摘だと思いました。これからは、このアイデアを考えに入れないと映画のサウンドトラックのことは語れなさそうだなあ、という気がします。

そこで、早速、態勢を立て直すべく考え直してみた。

ライトモティーフの技法から論考がスタートしているのだから、直接的には言及されない前提として、19世紀までのオペラの作曲が背景・前提になった書物であるという風にこの書物が属する文脈を設定するのは、たぶんさほど的外れな読み方ではないだろう。

そうすると本書は、オペラ → 映画 → ゲームという風に視覚表現をめぐる環境が移り変わっていくなかで、音楽が過去の遺産を継承しながらどのように組み変わっているのか、要点を簡潔にまとめた論考と位置づけることができそうだ。

しかしそうだとすると、オペラでは「作曲家の領分」であった「ことば」が、映画音楽とゲームオーディオからすっぽり抜け落ちていることに気付かされる。映画において、役者やナレーターが発声したり、字幕・キャプションとしてスーパーインポーズされる「声と文字」は演出家=映画監督の領分であって、そこには顕在的・潜在的に「音響」的側面があるけれど、作曲家は直接的には関与しない。

(多くの回想録が映画の制作現場における作曲家の不遇感を伝えているが、「トーキー」と呼ばれる映画のサウンドトラックの制作において、音楽家は肝心の「発話 talk」へのアクセス権を与えられていなかったわけですね。「去勢」と形容できてしまうかもしれない分業の慣習は、音楽家の不遇感と無関係ではないように思う。)

そしてハリウッドのメジャーが凋落した60年代のニューシネマ以後になると、ポピュラー音楽(しばしば「歌」である)をサントラに使うようになって、再び、音楽の領分に「ことば」が戻ってくる。映画音楽が「ことば」を排除したスコアリングの作業だったのは、始点と終点を特定できる一時期のことに過ぎないのだが、この件は本書では扱われない。

ビデオゲームの場合は、画面に表示される文字や、のちのマルチメディア化した作品におけるキャラクターの声が、どのような業務態勢で制作・制御・演出されているのか、私はよく知らないけれど、たぶん、オペラとも映画とも違った状況が生じていそうな気がします。

本書の論考が簡潔かつ鮮やかにまとまったのは、映画とビデオゲームの「声と文字」(そして「歌」)を直接の対象から外したからこそなのかもしれない。映画音楽とゲームオーディオを、著者は「映像音響」と呼ぶわけだが、ここで言われる「音響」概念は、ことば(「声」であることもあれば「文字」であることもある)をことばとしては扱わない態度と言えそうだ。映画やゲームにことばが介在しているのを著者が知らないはずはないし、ことばの関与を最大限に活用しているからこその論考・分析だと思うけれど、そのことを顕在化させると話がややこしくなるので、「ことば」を切ったのかもしれない。

そしてこれは、書物をまとめて、輪郭のくっきりした成果を出すための適切な判断だろうと思う。

思考・研究は、何もかも、まんべんなく、総合的に扱わなければならない、というものではない。ときには大胆で、ときには繊細な制限や制約が発見につながる、ということだろうと思います。