物語の算術、記号の代数、文化の測量

virtual の語を意識しながら「虚構の時代」という言葉を東大教授が流通させた20世紀末は、傍目には教養部表象文化が「ヴァーチャル派」、文学部美学が「フィクション派」だったように見えていたのだから、「フィクションという名のヴァーチャル」というキメラな概念は、社会学者が教養部と文学部の裂け目を縫い合わせようとする公武合体風の融和策だったのかなあ、などと、くだらないことを思いついて、

しかしどうして「仮想」と「虚構」が対立して不仲に見えたのか、そもそも、「文系」のなかでいがみあうのはセコい話だよなあ、今では、文系と理系の境目のない「学環」とかそういうことになっているらしく、表象文化な人たちは全国のキラキラ学部へ拡散して、東大美学は(表象文化ではないけれど)教養部出身の三浦俊彦先生が赴任して分析哲学芸術部門みたいになりそうな雰囲気なので、どっちにしても、既に終わった話なのだろうけれど、

などと考えるうちに、もういっそ、文系の基礎理論を全部数学になぞらえて理解すればいいんじゃないかと気がついた。

物語る行為は、筋を分岐させたり、話法を効率化したり、あっと驚く決定的な急所を塩梅・演出したりする計算の側面を備えていて、ビデオゲームであれば算法・アルゴリズムを活用してプログラミングするのだろうけれど、そんなことを言えば、アリストテレスの詩学はギリシャのデュオニソス祭の演劇の mythos (神話=筋立て)の分類・分析だったのだから、欧米の文明は、最初からずっと、物語る行為を算術とみなし続けていると考えていいかもしれない。

一方、そのような物語る行為によって立ち上げられた「おはなし」を何と呼び、「おはなし」ならざる何かとどのように分節するか、ということを考え始めると、「おはなし」と「おえかき」は似ている、とか、「うた」も仲間に入れてくれ、とか、じゃあ何が似ているのか、「作りごと」として似ていると言うのであれば、建築や造園はどうなるのか、「絵空事」と言うのであれば、既存のものにそれらしい名前を付けるだけでもいいんじゃないか、とか、記号を取り扱うモードに入って、状況は代数の操作に似てくる。おそらく、割り切れるもの rational と割り切れないもの irrational の区別とか、実 real ではない虚 fictive を設定したほうが事態をうまく処理できそうだ、というのもこの水準ですよね。記号学という名の数論だ。

そして「おはなし」を物語るにせよ、「おえかき」するにせよ、その種の行為は、人と物を動かしたり、少なくとも、どこかにしかるべく配置しないと上手くいかない。オレは裸一貫、身一つで勝負する(=パフォーミング・アーツ)と言ったって、受け手との間合い・関係・駆け引きはどうしたって発生する。そういうことを考え始めると、今度は、太陽や月や星の運行、それらの様々な配置が図柄を描いたり、運動の過程で何かが何かに近づいたり遠ざかったり、一方が他方を隠したり、他方が一方に影響を及ぼしたりする様を取り扱う geometry とか、砂の上に様々な絵を描いて、その取り扱いを練習(mathemata)した経験と、やっていることが似てくるわけだ。

しかもどうやらその先で、人と物の配置・関係・運動の把握は、ヒトの「目」や「耳」の性質に依存しているらしいことがわかってくる。光や音は、人や物の物理的な状態と必要十分に対応しているとはいえない像を結ぶことがあるらしい。そのような virtual を考えに入れないと、人為の幾何・測量は立ちゆかないらしい。

人間には得意不得意があるし、環境で後天的に特定の能力を発達させることもあるだろうから、早くからビジネスの世界に入って、やりくり・計算を鍛えられた娯楽産業の人たちは、「物語の算術」が得意で、概して、アートの「物語論」をやりたがる。

いわゆる「文系」は、言葉という記号の読み書きを何年もかけて徹底的に訓練しているから、計算や作図はいまいちだけれど、代数的な処理が得意で、彼らがアートを語ると、話が高等な数論めいてくる。

そして「理系」は、エレガントな作図に習熟しており、実業界の泥臭い計算や、記号の集積で息が詰まりそうな文系代数をダサイと考えて、サラっとグラフでプレゼンする。

……という風に割り切るのは極論かもしれないけれど、20世紀末の美学が、いかにも「文系」的に屁理屈すれすれにマニアックな記号操作に邁進して、表象文化のエレガントな作図を忌み嫌う、みたいなことがあったかもしれない。

他方で、表象文化の「総長」は、表面がザラついたり、粉末がまとわりついて払いのけるのが大変そうな「磁気帯び粒子」がことのほかお嫌いなようで、そのような汚らわしい磁気帯び人材が出てくると即座に睾丸をにぎりつぶそうとするらしいので、光と音が織りなす文化の測量は楽ではなかったのかもしれませんが……。virtual の語に理解を示した社会学の先生も、どちらかというとこれを「最新の社会問題」と考えていらっしゃったようで、土壇場で裏切る、とか、そういうことになったみたいですしねえ……。

(光は粒なのか波なのか、ということが議論された20世紀に、フィルム(膜)を通過した光をスクリーン(幕)に反射させる映画と、粒子の衝突で発光するブラウン管テレビジョンが並び立ってしまったのは、表象文化の不幸だったのかもしれませんね。)