外来語の効用

そういえばドイツ語の(まともな)論文では、musica とか beaux arts とか、外来の概念を原語のまま埋め込んであることが多い気がする。新聞やテレビでも、気取った感じにフランス語が混ざったり、最近の風俗を語るときには普通に英単語を交ぜていた記憶がある。IT関係などは、英語混じりが常態になっているんじゃないだろうか。たぶん、Bild で処理できないことは、pictora とかイタリア語あたりで書くのが作法、ということになるのだろう。(外来語をどの言語から採るか、ひとつひとつに蘊蓄がありそうなところが、言語に埋め込まれた教養主義、なのかもしれない。)単一の語幹から名詞と動詞と形容詞を派生させる記号操作を発展させて、秩序だってはいるけれども、ヘーゲルやハイデガーの時代じゃないんでそれでは限界がある、と気付いてから、母国語の編み目の隙間を外来語で埋めるようになったのだろう。相手がドイツ語に不自由だと見て取ると、すぐさま英語に切り替えたりするので、彼らの外国語使用は自陣を確保したうえでの「攻め」の姿勢と言えるかも。

サビア・ウォーフ仮説にちゃんと反論するためには、たぶん、こういうのも視野に入れないといけないんでしょうね。真名と仮名、ひらがなとカタカナ、さらにはアルファベットを混在させる日本語の場合もそうだと思うけれど。

(フランス語はどうなっているのだろう?)