制度論

東京芸大には優秀なスタッフが揃っているのだろうし、それは昨日今日のことではなく、もしかすると、桐朋あたりの私大が国際コンクールの入賞者を輩出してマスコミを賑わせて、生徒をたくさん集めていた頃から既にそうだったのかもしれないけれど、外から見たイメージとしては、国立の施設だし、N響のドイツ一辺倒とさほど違わない堅苦しいところなのだろうなあ、と、大した根拠もなく、少なくとも私は長い間そう思っていた。

実際に、「芸大卒でなければ人にあらず」風の態度を取る卒業生(しかもその人が具体的に言っていることはさほど間違っていないので反論できない)が個々に実在したようだし、私のような者にまでそのようなウサワが耳に入るということは、そういう態度が、例外とはいえないくらい広まっていた時期(世代)があったのだろう。

N響のように常時対外的な公演を行っている団体であれば、指揮者や団員が入れ替わって、聴けばすぐにわかる感じにレパートリーや音が変わっていくから、「もう昔のままじゃないんだな」とわかるけれど、大学は人を育てるシステムなので、そこを出た人が外で活動して、さらにその弟子が育って……という年月を経たフィードバックのようなものがないと、たぶん、一夜にしてイメージが刷新されることはないだろうし、そんなことをしていたら手遅れになる、というのであれば、何か思いきった手を打たざるを得まい。

「島岡和声を止めます。これからは、入試課題も新しい教科書を前提にするのでよろしく」

というアナウンスは、たぶんそういうことですよね。旧来のシステムに乗っかっていた人たちは、別に悪いことをしていたわけではないけれど梯子を外された格好で、そうなっても、ここはやっておこう、ということなのでしょう。

制度に手を付ける、という最近では珍しいかもしれない典型的な事例だなあ、という気がします。

それはもう、○○先生はいい人だ、的な個人評価の話ではないところで、何かを動かす、ということで、だから、ビュイグ=ロジェ先生は偉かった、とか、ということですらなくなっていると思う。

国家の中央集権にビルトインされた機関だから、これは、そういう風にやらないとしょうがないのでしょう。

(たぶん東大も似た事情・状況に置かれた機関だよね。周囲がヤキモキしようがしまいが、現行のシステムや配置はこうなっている、と確定記述するしかない。制度 institution は、理念や命題とその解釈から成り立つパンデクテンとは別物だ、というのはそういうことだと思う。)