研究史 - fiction/non-fiction の区別とfictional discourses の吟味を混同する日本人たち

ケンダル・ウォルトンは、1990年に、fiction と non-fiction という書店や図書館の分類が実用的ではあっても表象芸術を考察する哲学の土台にはなり得ない、ということを詳述している。

西村清和の1933年の「フィクションの美学」が第2章で素描しようとした議論は、ウォルトンの詳述で予め否定されていると言わざるを得ないだろう。

昨年末に、美学のマーケティングが一部大手書店で「加速」して、そのときに、「英米系美学はフェアに論争を展開しているから、いいぞ!」と煽られたわけだが、高田敦史は、どうしてウォルトンから四半世紀たった今も、フィクション論なるジャンルが存続し得ているかのように言うのだろうか。そのような微温的な紹介のどこに、フェアな論争があるのだろうか?

(西村先生の「フィクションの美学」が「フィクションと感情を巡る哲学的問題などを扱っている」というのは、それが論争史に直接絡まない立論であることを示唆して、正確な紹介ではあるのだろうけれど。)

フィクションとノンフィクションという区別は、実用的に(たぶんおそらく英米圏発祥で)まかり通っているのだから、現代文化の事例研究としてであれば取り扱われる意味があるだろうし、この区別の発信源と思われる英米の書き手が、この区別から説き起こすのは、彼らの「ローカルな事情」として理解できる。しかし、近代化と西洋化は別の事態であるように、グローバル化/英語化は、アメリカ化とは違うだろう。

フィクションとノンフィクションの区別を哲学の基本問題であるかのように思いなすのは、議論をフェアに開くことではなく、英米ローカルに囲い込むダメな道だと思う。哲学ではなく、英米文化研究のトピックだろう。

[追記] むしろ、フィクションの周辺では、「音楽物語」を考えるうえでも、フィクショナルキャラクターに着目する議論のほうが脈がありそうだ。どうやらフィクションに関して、「虚」と「実」をめぐる発話の吟味、というあたりは90年代におおむね決着して、ゼロ年代には議論が次のフェーズに移ったということのようですね。日本のサブカルチャーで言う「物語消費」から「(キャラクターの)データベース消費」へ、という話と似過ぎている感じがしないでもないですが……。

で、こういう風に色々な読み方ができるように、「加速」のブックガイドは、それぞれの著書の出版年を書いておいて欲しかったなあと思います。=消費者の論理