大判ビジュアル雑誌

芸術新潮は1961年1月号からB5版で写真を多用する誌面に変わる。その前から写真や商業デザインやラジオ・テレビを「芸術」と見なす紙面作りをして、木村伊兵衛の写真が毎号巻頭を飾っていたりしたので、正常進化という感じがする。(音楽芸術が1960年から大判になるのが唐突で浮かれている感じなのとは、随分印象が違う。)のちに新潮社が写真週刊誌を出して、平凡社の太陽は「日本初のヴィジュアル雑誌」を名乗るけれど、そういう試みは、1960年頃の各種雑誌のA5[追記: 四六判と呼ぶらしい]からB5への転換の延長に過ぎないのではないかと思えてくる。

大判になる前の年1960年というと安保闘争だけれど、その痕跡は(当然というべきか)芸術新潮では希薄だが、東ベルリンから帰国した岩淵達治が東西ドイツでのブレヒト劇の扱いを報告したり、野間宏の「セチュアンの善人」観劇記が掲載されている。ベルリンに壁が築かれたあと数年は、西ドイツでブレヒト上演のボイコットが相次ぐ、というようなことがあったらしいですね。

柴田南雄は、アバドとポリーニのバルトークのLPの批評のなかで、かつての自分たちは「現代音楽」を楽譜だけを読んで勉強して、あまりにも生真面目に受け止めすぎていたかもしれない、と書いているが、「アフリカ美術」であるとか、「現代彫刻のある風景」であるとか、といった眺めているだけで面白い写真が並んでいる大判雑誌の登場は、政治と文学であるとか、アートの進歩であるとか、というスローガンが退潮していくのと同じ事態なのかもしれない。「進歩主義からの軽やかな脱却」や「読者の自由」は、進歩主義や作者の権威を19世紀やそれ以前に見ようとするけれど、実際は、60年代から70年代にアートの周辺で起きたことを過去に投影しているだけなのかもしれない。